"Essay" にまつわる文章のリスト

潮垂る

 枯れ果てた黄砂のような頬を風にさらす老婆

 風は冷たくその跡さえも残してはいない

 ベンチに座り大きな荷物を背負っている

 それはただ目に映るだけのものだった


 潮に濡れた脚だけ

 涙に沈んだ服の袖

 命を含んだ光の朝露

 闇に濡れた時間の影


 老婆は少し時間を置いて立ち上がった

 曲がった背にまた大きな荷物を背負って

 微笑みさえも悲しく映る

 潮垂るる色褪せた白い袖

  • 2006年6月30日 08:44
  • 松田拓弥
  • Essay

中古

 人はきっと、アリンコよりもせっせと働く。そして我先にと死んでいく…
 時の流れは早いもの。でも死ぬまでは長くとも、死んでからはさらに長い。
 死んだことはないけれど、まだ生きてる人の心のなかには残ってるだろうから。
 生きておるのがツライなら、もっともっと生きるべし。


 「答え」ばかりを知っていても、なにも実を結ぶことなし。
 「疑問」をたくさん抱えることで、初めていろんな答えの花が咲く。咲き誇る。
 俺は誇る。
 俺の疑問の数々を…
 そして、あなたに…
 咲き誇る。
 恋の疑問と答えの桜が咲き乱れる…やがて散っても、疲れ果てることもなく、また咲き、散っては返り咲く。
 たとえ散るのが悲しくとも、また咲くことを知っていれば、また静かに雨が降る。その奥に秘められた、また光を浴びたいと強く願う、小さな小さな心の種に…

 人は恋をしては大きくなり、恋を重ねて成長し、恋と離れて自分を知る。そしてまた人は恋をして、さらに大きな自分と出逢う。

 …新しい人との出逢いは、新しい自分との出逢いなのだから…

  • 2006年6月29日 23:54
  • 松田拓弥
  • Essay

恋=時間

 永遠なんて、そんなものは存在しないと思ってた。思ってる。むろん、永遠の愛なんてものは、夢のなかにも出てこない単なる“理想”なんだと思ってる。
 だけど、いつか変わる、いや、変われるときがくるとも思ってる。
 だから、信じることをあきらめない。

「前の恋は、次の恋で忘れなよ」
 だから、終わった前の恋が大きすぎるということはない。思いこみで自分のことだけしか考えられなくなって、防衛線を張りめぐらせて、その先のとがった針先は、相手へと向いたり、ときには自分に向けたり、なにも解決しない、なにも変わらない、なにも変われない、なにも変えられない、深淵に落ちてゆく。

 時間ばかりが通り過ぎて、自分はそのままの時間を繰り返す。
 自分が幸せだと感じれば感じるほど、ヒトは飢えて不安になる。
 その不安を解消し得た代償は、自分の時間と記憶と、前の恋。
 だとしたら、時間のなかで繰り返される“恋”のサイクルは、規則正しく流れつづける時間のなかでしか存在してない。
 そんなふうにはならないだろうか?
 違うだろうか?

「もう“次の恋”はない」
 そう言えたり感じることができる恋は、きっと恋でしかないと思う。
「恋に最後も次もない」

 きっと、なにも感じない。そこに自分の存在があるだけでいいと思えることが、すごくイイんだと思う。
 出逢ってからの時間がどうのとか、誰ソレじゃなきゃダメだとか、二人っきりじゃなきゃイヤだとか、そういうんじゃないと思う。

 きっとそれでいいと思う。

 そういうことを全部ふまえた上で、こう感じる。
『愛と恋との違い真顔で 語り合うほど青かない』
 これは、俺が好きな歌詞のひとつ。

 愛も恋も、その気持ちに違いはないと思う。
 愛と恋とを別のものだとわけたがるのは、そのどちらかをものすごく特別視してたり、自分のなかの気持ちってのを整理したいときに使うんだと思う。
 実際、愛も恋も、そんなに酸いも甘いもわかりきったっていうほど知ってもいない。
 知りたくもない。

 愛は重いか?
 恋は軽いか?
 愛は美しいか?
 恋はかわいいか?
 愛しいだけが愛じゃない。
 好きなだけが恋でもない。
 それはきっと、それを経験した人なら誰もが感じる気持ちだろう。
 ただ、その気持ちを、自分のなかの抽斗にしまいたくなったときに、自分だけのしおりを作るんだろう。

俺の心のなかでは、『永遠』という言葉は、単に時間を表す言葉なんかじゃないと刻まれてる。
『永遠』とは、『愛』だと。その『景色』だと。

いつか、こんな詩を作ってみようと思います。

  • 2006年6月28日 18:44
  • 松田拓弥
  • Essay

ひとり

 みんな、さみしいんだよ…
 そうなの、みんなさみしいんだよ…
 心の奥じゃ、誰もがそんな小さな孤独をいつもいつも抱えてんだよ…
 みんな、ひとりってのが怖いんだよ…

 時間とともにそれが薄れていって、やがてはそれが大きくなる。
 一緒にいる時間が長くなればなるほど、より大きな孤独を感じるようになってって、と同時に、そこに孤独っていう不安と恐怖もふくらんでく。

 ひとりじゃないときが長ければ、ひとりになるのが余計に怖くなる。
 ひとりに慣れてしまえば、ひとりじゃなくなることが怖くなる。

 孤独から1歩進んで。
 1歩引いて、ひとりになって。
 怖くなる。
 ひとりになることも、もうひとりじゃなくなることも。
 そんなときには、きっと誰もが自分自身とふたりになる。
 そして、孤独のなかで孤独を隠して、強がって、笑いながら、泣いている。

 きっと誰もが孤独のなかにいる。
 でも、そんななかでも、いかに自分は孤独じゃないかってことに気づくことが大切なこと。
 そしてそれに気づけたとき、また怖くなっても、また怖くなくなれるよ。

  • 2006年6月28日 12:57
  • 松田拓弥
  • Essay

生きる

 …一生懸命考えた。
 寝るまでのあいだ、ずっと、そのことについて考えてた…

 …【生きる】…

 いろんなことを疑った。
 それが可能だったから…
・俺は、本当に今ここにいるのか?
・俺は、本当にこの名前であってるのか?
・俺は、笑ってるとき本当に笑ってるのか?
・俺は、泣いてるのか?
・そもそも『生きる』って、なんだ?

 たまにふとした瞬間に感じるときがある。
〈ああ、今、俺、生きてるなぁ~〉
 まるで湧き水みたいに、そう感じてしまうときがある。

 どんなときだったか…
 …でも、思いだせなかった。
 本当に【ふとした瞬間】だったんだと思う。
 便所にいるときかもしれないし、部屋でタバコ吸ってるときかもしれないし、ボケーッと天井の模様でアミダクジしてるときだったかもしれない。ぶらぶらアテもなく歩いてるときかもしれないし、颯爽とチャリンコこいでるときだったかもしれない。思いっきり歌ってるときだったかもしれない。誰かとしゃべってるときかもしれなかった。
 けど、けっこうあったような気もする。

 楽しい時とか、悲しい時とか、思いっきり叫んでる時とか、怒ってる時とか、そういう瞬間じゃない。
 【理由】なんてなかったような気がする。
 楽しいから、生きてる…
 そんな感じ方じゃなかったような気がする。


 ポッ…
                        ポッ…             ポッ…

             ポッ…


 本当にこんな感じで、例えて言うなら、きっとこんな感じだと思う。

- 落ち葉がひらひら舞い落ちて、
         それが道端で静かにそのカタチをつけた -

 一生懸命考えることもなかった気もするけど、ムダだとは思わない。


 【生ける屍】
 よく聞く単語だ。熟語か? 表現か?
 生きてるのに、死んでるみたい…
 そうやって見ると、ただ呼吸してるっていうだけでも【生きてる】と言えるみたいだ…でも【死んでる】らしい…
 死んでるけども、生きてるように見えることもあるらしい…

 …動きがあるか、ないか…

 それか?
 動きというか、躍動感というか、エネルギーというか、血色というか…不思議なオーラみたいのを発散する空気っぽい感じか?


 【眼】か?

 生き生きした眼だとか、眼が死んでるという表現をよく聞く。
 たしかに、それはあると思う。大いにあると思う。
 死んだ人の目を閉じるのも、そのへんからきてるのかとも思ってみたりする…

 【生きる】
 理由はいらないのかもしれない。
 理由はないのかもしれない。
 理由は求めないのかもしれない。

 生きることに、理由なんていらないのかもしれない…

 生きてること自体が、その理由になってるのかもしれない…


 …一生懸命考えた。
 でも、【答え】なんて見つからなかった…もしかしたら、その自分が生きてるうちは、答えなんて見つけられないのかもしれない。

  • 2006年6月28日 00:00
  • 松田拓弥
  • Essay

笑うこと

 日本人って、けっこう大切に思ってないんじゃないかと最近気づいたのであった…
 なぜなら、日本人って、あんまり笑わないと感じたから…
 デッカい口あけて、思いっきし笑ってる人って、あんまり見たことない…テレビのなかぐらいしか見たことない…身のまわりでそんな笑い方してるの見たことないと思った。
 外国の人を見るのもまあ確かにテレビだけってのがほとんどだけど、やっぱり笑うときは豪快に笑ってるような気がする…抑えぎみでもやっぱり本当に楽しそうに笑ってるように見える。

 【笑顔】っていう表情がある…

 だけどさ、日本人がそれを重要だと感じたりイイモノだって思ってるのって、歌とか小説とか映画のなかだけじゃないかと思った。
 歌詞だったり、セリフだったり、それを客観的に眺めてるとき。

 つまり、【フィクション】ってやつ。

 いざ実際に自分のこととなると、なんだかあまり笑えてないように見える…ひきつった笑い…無理した笑顔…ゆがんだ微笑み…目が死んでる笑顔…笑ってない笑顔…いろいろあった。
 中にはちゃんと笑える人もいるんだろうけど、俺のまわりではごく少数しかいないような気がするのだね、それは。
 だから、日本人はすぐ老けたように見えるんじゃないかと…
 日本人が得意な笑顔って、“嘲笑”と“冷笑”じゃないかと…勝手な思いこみかしら。

 日本人にとって、思いっきりデカい声だして笑うことって、あんまり好ましくないと思われてるんじゃないかな、実際には?
 電車のなかで大声で笑うやつは、たしかにやかましい…うるさい。
 でも場所が違えばどうだろう…
 たとえばお食事中…でも、これでもやっぱり怒られるんじゃないか?
 メシ食ってる最中にしゃべったり笑ったり歌ったりしたら、親に怒られたという記憶がある…たたかれたこともあった。
 だからかもしれないけど、俺は今、メシ食ってるときにただ黙々とメシだけを食う人が嫌いだ。楽しく談笑しながらのメシの雰囲気も、一緒に食え。

 こないだ仕事中に笑ったら、うしろから社員の人に怒られた…これは別問題なのか?
 仕事は仕事ってことか?
 たしかに。一理ある。
 でもただ黙って自分の仕事をこなすだけなんて、つまんなすぎだろう…やっぱ仕事も楽しくやりたいじゃん。
「仕事はそんなに楽しいものじゃない」
 んなこと言う人は嫌いだ。
 …黙々と自分の仕事をそつなくこなして、ミスはゼロ、ムダ口禁止、姿勢を正して、挨拶しっかり…これが日本のお仕事大原則だと感じたのは、授業を抜けてブラブラしていた廊下から見つけた中学2年の職員室。
 つまんなそうだった…
 俺には入れない。
 …雑談しながら仕事をやって、笑えるミスならたまの愛嬌、デッカいミスならその損害返すまでずっと勤務で給料カット、ムダ口最高、仕事のしやすい環境は自分で整える、音楽嫌いは即刻クビ、挨拶はひさびさに会ったときで充分…楽しそうな仕事場だ。いや、遊び場だ。
 もし自分で作るなら、公園みたいな会社がいい。

 俺が見た感じでは「ちゃんと笑える人=おもしろい人」なのかなぁ~…と。そして若くみえる!! じいちゃんでもばあちゃんでも、笑ってるときの顔は、なぜか若く見えて仕方ない…シワとかは別のものとして、気持ち若く見えたりする。
 ああ、長くなりすぎた…

 ちゃんと笑ってる?
 ちゃんと笑えてる?
 ってか、ちゃんと人生楽しんでる??

  • 2006年6月27日 20:55
  • 松田拓弥
  • Essay

世界中の大きな大きなチビッコたち

「意外」

 必ずそう言われる。
 “子供?”
 俺が“好き”と口にすると、必ずそんな答えが返ってくる。
 意外だろうが、案外だろうが、子供はなにしたってカワイイもんだ。
 カワイイもんはカワイイ、こればっかりは譲れない。
 レジ待ちのとき、子供を抱いたお母さんが隣にいると、そのお母さんには気づかれないように、俺は必ず赤ちゃんにちょっかいを出してしまう。お母さんに気づかれたときは、笑ってごまかす。そして、お母さんが視線を前に向けたら、すかさずまたちょっかいを出す。また気づかれたら、また笑ってごまかす。
 正直言えば、そのお母さんには興味ない。話しかけられようものなら、お母さんの話には適度に相槌を打ちながら、もっぱら赤ちゃんと遊ばせてもらう。
 しかしまぁ~…
 そんな光景を見てるだけで、お母さんってのは嬉しかったり楽しかったりするんじゃないかと思われる…誠しやかに勝手な単なる子供好きの男の見解ってだけで、単に俺自身がそう願ってるだけかもしれまいに…見て見ぬフリをしてくれてるのかもしれまいに。
 でも、たいていが、お母さんは笑ってる。俺に話しかけずに、子供と遊んでるのを見て笑ってくれてるのだな…見守ってくれてるとでも言いましょうか…
 むしろ、そんなときは、俺も同じ子供として見られてるんだろうか。
 んでもって、そのときのお母さんの微笑みは、とても優しい…そんなお母さんは、どんなお母さんも、聖母でございます。
 さすがに“抱かせてくれ”とは頼めないから、何回も何回も赤ちゃんに指をにぎってもらう。あの感触がたまらない。ちっちゃけれど力強くて、固いけれど優しくて、ふわふわしててやわらかい…どうしても顔がニヤついてしまう。思いっきし抱きしめてやりたくなるけど、なんか壊れてしまいそうで怖くなる。
 そのとき、俺こそ加減を知らないクソガキなのだと思い知る。


 子供にじっと見られると、なぜか俺もじっと見つめ返してしまう。
 あのちっこい瞳の奥で、なにかドデカイ世界を見てるんじゃないかと、俺もその仲間に入れてほしくてそうしてしまう。
 でも子供はサッと顔を背けてしまう。
 探りすぎたか?
 子供にそっぽ向かれるほどに、悲しいことはない。


 目の前で子供に泣かれると、どうしていいかわからなくなってこっちまで泣きたくなるけど、ちょっと嬉しい気もしてみたり…
 ほんのちょっとでも、そのちっこいさらにちっこいそこに、俺に対する気持ちがわいたのかと思うと、もっと泣かしてやりたくもなる…でも、どうしてもそれは不可能。立っていたら、どっか座れる場所に連れていって隣に一緒に座ってあげたい。座っていたら、向き合ってあげたい。とにかく一緒にその手をつないであげたくなる。
 泣いてる子供もカワイイけど、やっぱり楽しそうに笑ってる子供が一番カワイイ。一緒に仲間に入れてほしいと感じてしまう。
 前に、そこで出逢えた知らない子供たちと砂場で遊んでいたら、そこにお母さんが現れて、その子を連れて帰ろうとしたとき、俺を見つめてその子が泣いた。今の今まで楽しそうに笑ってた子が俺の顔見て泣いてくれた…えらい嬉しかった。
 でも、レストランとかでビービー泣いてる子供はムカつく…そして、泣いてるその子をさらに怒る親はもっとムカつく。そこから力ずくでも連れてきて一緒にギョーザを食べたくなる。
 泣いてる子供をほっとくヤツが信じられない…子供ほど、泣いてる子供のそばへと寄っていく。
 その光景が一番好きかも…


 笑っては泣いて、泣いては笑って、笑っては笑って…
 天使よりも可愛らしい。
 立ち止まっては観察して、目を開いてはなにかを見て、目を閉じては眠ってて、尻をついては歩きだす…
 点と線よりシンプルだ。
 点と線で描かれたものより、点と線では描ききれない子供のほうが芸術だ。


 子供はデッカい嘘をつく。
 大人は小さな嘘を重ねる。
 なんか、100万人の大人を気取った人たちよりも、たった1人の子供のほうが、楽しくおしゃべりできそうだ…
 そんな気がした今日のこの頃…

  • 2006年6月26日 07:16
  • 松田拓弥
  • Essay

鼻がきく

 【鼻がきく】とは、よく聞く言葉。

 そうだ、それは大切なことなのだと気づく。
 それに気づいたのは、ある人との出逢いがきっかけでもあり、バイト先のテンキーをポコポコたたいてたという偶然とも一致したときの気分だった。


 有名な人のお言葉ちょうだい。
 “人はまず、ニオイをかぐ。それは、自分の鼻がそれを受け入れられるか否かを判断するための、本能的なしぐさである。それを近づけるか、遠ざけるかは、自分の鼻が決めることである”

 …って、実は、無名な俺のお言葉なんだけども…でもコレってけっこうあると思ったから、特別に枠をとって載せてやった。

 【臭気】と書くと、それはきっとクサそうな印象が全身を駆けめぐる。【臭い】と書いても意味も文字も同じになるし、もし【臭気剤】なんて名前なら、中身は同じものでもきっと誰も買わないと思う。
 【芳香】なら、とても女性的で優しそうな感じがする。【匂い】と書けば、これまたいい感じだろう。やっぱり【芳香剤】っていう商品に手が伸びるでしょうな。

 これだ。これなんだな。
 文字を見ただけで、なんとなく鼻がピクピクと反応してしまう。
 文字や響きから受けるイメージが、そのままもうできあがってしまうわけだ。

 人はまず【見る】と思いがちだけど、実際に見たらば、本当にあくまで【見る】だけだと思う。想像も確認する必要もないなんて勝手に体と頭のほうで判断しちゃって、その目に見えたものがすべてになっちゃうと思うんだわ。
 だがしかし、【におい】だとどうだろうか?
 ガスのにおいをチラッと左の小鼻がかぎとったとすると…絶対確認しに行く。そして、そういうニオイにはすごい敏感な反応を示すと思う。
 もしシューって鳴ってたら止めるだろうし、なんもなかったらひと安心。目でも見てるわけだし。
 イヤなものほど敏感に働くわけだ。

 でも、この【におい】ってやつは、そういう本当のにおいってやつだけにはとどまらない。
 人の見た目とか姿からでも、会話でも、恋愛でも、信用問題でも、きっと何にでも通用するものなのだと思うんだな。
 本当にその人からなんかニオイを感じたら、それは好きなものか嫌いなものかで決まるだろうし、なんか雰囲気とかからでも「こいつ、なんかニオうなぁ~」なんて感じることもある。
 うまい話に「これは信用しちゃならん!!」って感じるのも、きっとそれはそお会話のなかで本能的にそんなニオイを嗅ぎつけたからだろうと思う。
 そんなふうに、人はいろんなところから出てる【におい】を嗅ぎ分けてるんじゃないかと思った。

 だから、鼻が悪いっていう人は、どうもパッとしないとか、イマイチ信用できないかもな、なんていう印象を受けたりすることがままある。
 気づけば、なんかいっつもボケーッとしてたり、なにかと行動に移すのが遅かったり、集中力に欠けてたり…
 とまあ、これもまた俺の勝手な思いこみの域を出ないけども。
 【鼻がきく】ってのはまた別の意味だけども、俺のまだまだ短い経験からの教訓の1つだったりする。でも、俺の友達が1人、プロの競輪選手になってガンガン稼いでるやつがいるのも、これまた確固たる事実。

 恋愛では、感情がにおう会話とか言葉選びとかしぐさとか…あ、この場合は【にじむ】のほうが的確かもしれまいに?
 恋愛では、まったく夢のない発言かもしれないけれども、きっとお互いかどっちか片方の【勘違い】から始まるんだと思ってみたり。
 で、そのきっかけが、お互いの何かしらの行動だったりしぐさだったりから嗅ぎ取った【におい】じゃないかと…
 相手ににおわせる会話のできる人は、恋愛への運びがうまい。まあ、俗に言う“思わせぶり”ってやつだな。
 直球ストレートで伝えると、それはそれでわかりやすいのかもしれないけど、実際にはその瞬間は、冗談として笑われて終わりということもある。まあ、その間柄にもよるだろうけど、それはそれでけっこううまくいかなかったりする。
“ん? もしかしたらこれって……”
 恋愛においては、これが絶大なる効果を発揮するわけだ。けっこうモヤモヤしたものを人に残すと、人はそれを自然に追及しようとするわけだ。
 だから実は、気持ちを恋愛にもっていくということは、案外簡単なことだったり…… 
 あぁ~夢がない!!
 やめた…

<!--と思ったけど、いい展開になりそうなので、このまま引っぱることに決定-->

 でも、信頼関係でも、恋愛と同じような原理だと思う。
 まあ、これはこじつけかもしれんけど、その人の人相とか出で立ちとか、あとは服装だったり髪型だったり…いろいろか。
 たとえ強面でも、どっかからいい感じの“におい”を発してれば、絶対の信頼を得られたりすると思うのだな。
 逆に言えば、ちゃんとしたスリーピースのスーツ着こなして、髪もピッチリ七三分けで、高級な香水つけてようとも、他の部分で胡散臭そうだったら、それはもうそれまで。
 あ、そうだ!!
 【胡散臭い】って字もあるな!!

 つまり【嗅覚】ってやつが重要なんじゃないかと思うわけ。

「危険なにおいのする男に女は惹かれるものよ」
 映画のなかでは、もうかなり昔っから使い古されてる言葉だ…
 で、とにもかくにも、“いいにおいのする女”に男は惹かれるものなんだな、これが。

 でもって、これけっこうあると思うんだけど、そのにおいでその人がだれだかはっきりと判別できるということ。
 昔の恋人を抱きしめたことがある、抱きしめられたことがあるって人なら、きっとここで大きくうなずいてると思われる。
 香水をつけてようがいまいが、その人の“におい”って必ずあって、“あ、やっぱりこの人だぁ~”っていう不思議な安心感というかなんというか、そういうのは体が憶えてるって感じで認識して理解して、たとえそのときはもう好きじゃなくてもけっこう受け入れちゃうんだな。
 記憶のなかにあるっていうだけで、けっこう人って、それがほとんど直接安心っていうところにつながってるんじゃないかと思うわけ。
 まあ、声もそうかもしれないけど、においっていうのを知っていれば、そっちのほうが強烈に伝わる。
 “もとさや”が一番結婚に向かいやすいってのは、きっとそこにあるんじゃないか?
 記憶のなかにありつつも、そのときはまた改めて新しい転機になってるっていうことでさ。新しくもあり、安心もあるっていう感じで。
 で、そのにおいには自分もなじんでるっていうかさ。
 なんか“ああ、なんか懐かしいにおい”とか、そういう曖昧なものじゃなくて、人のにおいの場合って、もう“あ、これはこの人のにおい”とか“あの人のにおいだ”とか、もっとこう、完全に鮮明な形で記憶にあるんだと思う。焼きつくとか、刻印みたいな感じで。

 まあ、つまり、結局なにが言いたいかっていうと、においを出せないやつは、なにをやっても感じてもらえないというわけだ。

 しっかし同じことばっかし書いてんなぁ~…そろそろネタ尽きてきたか、俺?

  • 2006年6月23日 03:49
  • 松田拓弥
  • Essay

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