名のある存在

 人って、自分を知りすぎると、最終的には死んでしまうのかなとか最近思った。

 “自分探しの旅”とかってよく聞く言葉だけど、それって、僕は思う。

 それまで築いてきた自分っていうのを、いっときでもいい、一瞬でもいいから忘れてしまいときの気持ちなんだって。

 旅好きの人ほど、変化っていうのを求めてるのかなとか。

 人生って、愛とかなんとか、最愛の人、伴侶、あるいは“失った自分の半分”なんて表現もあるけど、そういうのを探すんじゃなくて、すごくありきたりだけど、ホントの自分っていうか、ただの自分、ただ“純粋な自分”っていうのを探してく自分のなかに積み重ねてく時間の軌跡なんじゃないかな。
 それこそ、今の僕が考えられるホントシンプルな表現だと、自分自身の生と死の狭間 ── 他人うんぬんじゃなくて。
 そんななかに最愛の人だとか運命だとか、友達だとか恋人だとかとの出逢いがあったり別れがあったりして、きれいな表現はいくらでもできるっていうだけのことなんじゃないかなと思った。

 どんなに自分のことをよく知ってるって言ってみたところで、やっぱり今の時点では、自分の死だけは知りえない。

 詳しいことはわからんけど、仏教では究極の悟りは“無”らしいし、キリスト教とかでは、きっと自己犠牲なんだろうと思う。
 それってやっぱり、どう転んでも人にも手を差し伸べられる自我っていうものだと思うから、自分のすべてを知るときっていうのは、つまり自分が死ぬってことなのかなって。


 不思議なことに、旅に行けばいろんな人と出逢える。
 触れ合うとか話すっていうことは別にして、たとえチラ見だけだったとしても、きっとそれは出逢いって呼べることもあったりする。
 いろんな人、たくさんの人と出会うことで、これまた不思議なことに、自分っていうのがどんどんすり減っていってるような気持ちになってくる。
 感化されてるわけじゃなくて、その人を真似たりするわけでもなくて。
 影響を少なからず受ける。
 だから、それまでの自分っていうのが、ほんの少しだけ、その人の部分と重なってしまったりするんだろうな。
 それで、その見えなくなった部分の自分が、消えてしまったような気になるんじゃないかな。
 でも消えてるはずもなくて、重なったっていうだけのことで。


 自分っていうのを考えて見つめなおしたとき、どんなに小さくてなにもできない無力な存在かっていうのを思い知らされる。
 なんの影響力もなくて、泣いてたって誰も助けちゃくれなくて、一人で苦しんでたって、それは結局自分には悪あがきにしか思えなかったり。
 どんなに声を嗄らして叫んだって、世の中はなにも変わっちゃくれない。

 不思議だよ。
 どんなに苦しくても生きてられる。死にたいなんて感じなくなった。
 たとえ一瞬でも笑えるんだから。
 心からなんて笑えなくたってよくなった。
 笑顔ができるだけで幸せなんだよ。
 僕の顔も、僕の心も、気持ちも頭も、手も胸も足も、笑顔を忘れちゃいない。
 絆なんて呼べなくたって、そこにはきっとそれじゃない何か、きっと涙が自然とあふれてくるような何かが、あるんだから。
 だから思いきり泣ける。
 我慢なんてしなくなった。
 泣きたいときに泣くようになった。
 そしてそれを人に伝えられるようになった。
 「なんか泣けてきた」って。
 不思議だよ。
 なんもないのに気持ちが突然開けた感じだ ── ホント、開けた。
 そんな感じ。

 あまりに自分っていうのを知らなすぎた。
 知ったような気持ちでいつも大きなことを言っていた。
 自然なんてありはしないなんて、どこかでいつも自分自身を否定していた。
 どれもこれも自分が作りだしたフリなんだって、どこかでいつも常に自分は偽りのなかでしか生きられないとか、なんか映画みたいなことで上辺だけを繕っていた。
 嘘だ。
 嘘しかない。
 自分自身を模索して、手探りのなかで、上辺だけをモミクチャになるほど搾りとって、結局最後だけを見ようとしてた。
 でも違う。
 なにからなにまで知ろうとしても、これから先に起こること、そのとき感じる僕の気持ち、そしてそのとき関わった人の気持ちは、まだ今の僕には知りえないんだって。
 そんなこと今さら気づいてしまった。
 なんか今までの僕には、ちょっとそういうのが難しすぎたのかもしれない。
 “できない”とか“わからない”とか“知らない”っていうのがただイヤだから。
 なにからなにまで今知りたくて。
 まだまだ人生捨てたもんじゃないよ。
 “未来はある”って、きっとそういうことなんだな。
 ひさびさにいろんなこと考えながら感じながら書いてみると、全然書けないなんてことはない。

 なんだろう。
 他人は他人、自分は自分なんて、なんかすごい大人みたいでカッコよくてクールなんだけど、なんかそういうのが少しずつ消えてきた。
 人のことも自分のことのように感じられるようになってきた。
 痛いことも嬉しいことも。
 なんだろう。
 感じようとか感じたいって思うようになってきたのかな。

 誰かが僕の名前を呼んでくれるように、僕もその人の名前を呼ぶ。
 すごく簡単だって思ってたけど、実はすごく難しいことだった。
 人の名前が呼べないって、なんかすごく悲しかった。
 呼べる名前がないって、なんかすごく淋しかった。
 なんか、死んだ人の名前ばかり憶えてくんだ。
 “今、生きてる人はどこいったんだ?”って。

 きっと自分が死ぬときは、きっと、きっと自分っていう存在がいかに大きかったのかを思い知ることができるのかなって。

 って、なんかこれも期待かな。

  • 2006年10月17日 06:19
  • 松田拓弥
  • Essay

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