永遠なんて、そんなものは存在しないと思ってた。思ってる。むろん、永遠の愛なんてものは、夢のなかにも出てこない単なる“理想”なんだと思ってる。
だけど、いつか変わる、いや、変われるときがくるとも思ってる。
だから、信じることをあきらめない。
「前の恋は、次の恋で忘れなよ」
だから、終わった前の恋が大きすぎるということはない。思いこみで自分のことだけしか考えられなくなって、防衛線を張りめぐらせて、その先のとがった針先は、相手へと向いたり、ときには自分に向けたり、なにも解決しない、なにも変わらない、なにも変われない、なにも変えられない、深淵に落ちてゆく。
時間ばかりが通り過ぎて、自分はそのままの時間を繰り返す。
自分が幸せだと感じれば感じるほど、ヒトは飢えて不安になる。
その不安を解消し得た代償は、自分の時間と記憶と、前の恋。
だとしたら、時間のなかで繰り返される“恋”のサイクルは、規則正しく流れつづける時間のなかでしか存在してない。
そんなふうにはならないだろうか?
違うだろうか?
「もう“次の恋”はない」
そう言えたり感じることができる恋は、きっと恋でしかないと思う。
「恋に最後も次もない」
きっと、なにも感じない。そこに自分の存在があるだけでいいと思えることが、すごくイイんだと思う。
出逢ってからの時間がどうのとか、誰ソレじゃなきゃダメだとか、二人っきりじゃなきゃイヤだとか、そういうんじゃないと思う。
きっとそれでいいと思う。
そういうことを全部ふまえた上で、こう感じる。
『愛と恋との違い真顔で 語り合うほど青かない』
これは、俺が好きな歌詞のひとつ。
愛も恋も、その気持ちに違いはないと思う。
愛と恋とを別のものだとわけたがるのは、そのどちらかをものすごく特別視してたり、自分のなかの気持ちってのを整理したいときに使うんだと思う。
実際、愛も恋も、そんなに酸いも甘いもわかりきったっていうほど知ってもいない。
知りたくもない。
愛は重いか?
恋は軽いか?
愛は美しいか?
恋はかわいいか?
愛しいだけが愛じゃない。
好きなだけが恋でもない。
それはきっと、それを経験した人なら誰もが感じる気持ちだろう。
ただ、その気持ちを、自分のなかの抽斗にしまいたくなったときに、自分だけのしおりを作るんだろう。
俺の心のなかでは、『永遠』という言葉は、単に時間を表す言葉なんかじゃないと刻まれてる。
『永遠』とは、『愛』だと。その『景色』だと。
いつか、こんな詩を作ってみようと思います。
- 2006年6月28日 18:44
- Essay