"Essay" にまつわる文章のリスト

そこじゃ狭い

人がいて、初めて自分を知る。

人がいなきゃ、自分すら見失う。

自分で自分を想うことも、人がいなきゃわからない。

そんな世の中、住みづらい。

だけど人がいなきゃ、もっと住みづらい。

退屈だ。

自分がいて、人がいて、初めて自分も、人も、楽しくなれる。

一人遊びに慣れてしまうと、二人で遊ぶにはここじゃ狭い。

だけど広い場所でも、自分だけは見失わない。

  • 2006年7月13日 02:08
  • 松田拓弥
  • Essay

夢のつづき

 女は目覚めたあとの夢を追い、男は、目覚めるまでの夢を追う。

 だから男は夢精する。


 …ああ、台無し…

  • 2006年7月13日 00:08
  • 松田拓弥
  • Essay

理由

 頭の片隅に浮かんでは消えて、その束縛から逃れられなくなる。

 人それぞれに、それは存在して、消化して、昇華して……また再生して。

 理由を探し、見つけては、また別の理由を探し、見つける。
 別れを経て、また新しい別れを選ぶ。
 出逢いを踏みしめながら、また新しい出逢いを求めては、そのなかに点在する出逢いをつむぎ、散る。

 人間は、なにかを築きあげ、創造するとき、同時に、それを破壊する方法を探す。

 理由が欲しいなら、それをまず一生懸命やってみよう。
 あとから気づくものこそ、理由であり、希望なのだから……

 理由を血眼になって探すより、それを取っ払ってがんばれるそんな自分を見つけよう。

 【無我夢中】

 ……イイ言葉です。

 炎を見つめるほど、その影に目を奪われる……

  • 2006年7月11日 16:26
  • 松田拓弥
  • Essay

七夕

星の夢に夜空の闇をにじませて
めぐり逢えずに去ってゆく時の波を
この頬を伝った嬉し涙ですべてを洗い流してくれたなら
二人を隔てた川のほとりもやがて溶けてゆくだろう

七夕にまたたく星たちが
きっと二人の時計を狂わせて
悪戯好きな子供のように
二人を空から包んでくれているはずだから

めぐり逢えずに去っていった時の涙か…
めぐり逢いに心をなぞった星の涙か…


 時に、人が心の内にある気持ちや情景を言葉にするときには、まるで別の景色を映すことがある。

 でも詩とかそのへんのことなら、人それぞれの受け取り方があっていい。俺はとにかくいろいろ書いてみるけれど、そのときの自分の考えや気持ちや、そこにあった景色を押しつけようとは思わない。単に自分が表現したい、表現してみたい、残しておきたいと思うだけで、自分と同じく誰もが共感してほしいとかも思わない。
 なんか誰もが見れるホームページに公開しておきながら、恐ろしく自己中な感じになってしまうけど、なにはともあれ俺の詩とかはとにかく自己中みたいらしい…
 とりあえず笑ってごまかしとこう…

 まあまあ“七夕”だし、そのへんもふまえてしゃべっとこう…

 人はなぜか逆のことを口にするときがある。誰もが心に置くそこにある裏腹な期待と不安と、安心がちりばめられているように感じる。

 夜空の“闇”を示すことで、そのまわりに輝く無数の“光”に気づいてほしかったりする。

 なんか矛盾だとかあまのじゃくとか素直じゃないって思うけど、でも、それが人間ってやつなのかもしれないとか思えて、おもしろい。
 素直じゃないから、おもしろい。
 “裏”があるから、おもしろい。


 だけど北海道の七夕はまだまだ来ずに、来月らしい…
 これまたおもしろいことでもあったり…


 伝えたいこと伝えるのって、やっぱりすごく難しい…
 自分自身に伝えることすら難しいかもしれまいに…

  • 2006年7月 7日 21:34
  • 松田拓弥
  • Essay

プリクラ手帳

 一緒に変な顔してプリクラ撮った人がいる。
 そして、たくさん撮ったそれをアルバムに貼った。
 もう1度、ふとあるときに手帳のそこを開いてみた。
 全部憶えてた。
 でも、そのどれもが証明写真みたいに見えた。
 卒業アルバムみたいだった。
 本当に大切だと思える人が、そこには1人もいなかったから…
 ホントはいるかもしれないけれど、見つけられなかったから…

  • 2006年7月 7日 21:02
  • 松田拓弥
  • Essay

強さ

 【強さ】って?
 今日は、わたくしの長い長い、とても長かったバスケットボール人生で培った思考も織り交ぜつつ、それについて語ってみようと思います。


・攻撃は最大の防御なり・

 はっきり言ってインチキだと思います…
 守れなきゃ勝てないんです。攻めてばっかでもそれ以上に点数とられたら負けです。それ以上に打たれたらダウンします。まず、それ以上に攻められたら怖気づきます。人間、不安になるんです…

 バスケでは、強いチームってのは、やっぱり守りがすごかった。攻めはホントに基本的なことだけしかやってなくても、守りがすごかった。あんなの絶対攻めれません…と思ってしまうんですな。
 バスケは、たとえ観てる分には誰にでも決めれそうな、走ってって飛びあがってただボールをポイッて置いてくるだけのような、あのバスケ部が華麗に美しくエレガントにやるシュートだって、はずすことがあるのです。コーチは100%と言いますが、“ほぼ100%”っていうだけのこと。
 気づかずに背後からズバコ~ンとぶったたかれることもあるし、なぜか決まらない日というのもあるのです。
 そんな日もあるのです。
 3ポイントなんてもってのほか。やたらと入ってしまう日もあれば、30本打っても3本も入らない日ってのもあるのです…リングが小さく見えてしまう日があるのです。
 そんな日は、どんなに最強と言われるチームにも起こります。
 しかしだ。
 その分、守ればいいんです。そうすれば勝ててしまうから、あら不思議…自分らがはずした分、敵のシュートも防げばいい話。そすると、こう言われる。
「決められたらその分、こっちも決めりゃいい」
 不可能。
 “守る”より、やっぱり何だかんだ言っても“攻め”のほうが有利ってのは、これはもうしょうがない。それは事実だからね。特にバスケでは、攻めは個人でも組織でも、ほとんどが自由にできるから。
 一人に一人ついたところで、まず抜かれて当然なのですな。
 だが、しかし、それをいかにしてカバーし、そこにさらにできてしまった穴を速く埋めるかが、守りの鍵。

 ただのバスケット講座になりつつあるので、つまりは、こう…
「攻めは強くて当たり前…でも、さらに上を目指すなら、守りを強くする」


 どんなチームにも…いや、どんな人にも、必ず【弱点】というのがあるはずなのです。
 ここではゲームを例にしよう。
 プレステのコントローラで“L1・L2”が押せない人、けっこういると思う。これは俺もそう。意識しないとあっちのボタンは使えない。
 あとはまあ、自転車で左カーブは得意でも右がダメとか、ギターをやると指がロボットチックになるとか、リュックを肩にかけるときに右にしか掛けれないとか…いろいろあると思う。
 ってことで、そこを突かれないように守るのですな。
 そこを攻めなきゃ勝てないとしたら、そこの守りがさらに固くなれば、いくら攻めが強くても、まず勝てないのです。

<極端な話>
 まるでシュートが入らない。絶対入らないチームがあるとしよう。でも守りは鉄壁。
 ってことは、どんなチームとやっても試合の結果は【0-0】の同点。
 つまり、“負け”はないのです。
<極端すぎ>


 攻めってのは、【センス】だけでもできるのです。
 でも守りは、それだけじゃ使えない。経験とか、脚力とか、努力しなきゃ培えないものが必要不可欠なのですな。
 このへんが、学校の昼休みプレイヤーやちょっと攻めにセンスのある人が“ディフェンス嫌い”と口をそろえることにも一理ありなのでしょう。楽しくないのだな、アレは…地味だしな。

<余談>
 中学校ぐらいのバスケのコーチに告ぐ。
 あの“吐くまでただ走るだけ”とか“吐いても走らせる”とか“ずっとタップだけ”とか、ましてや“今日は筋トレの日”なんてのは、まるで意味がない。
 まずは【技術】を身につけさせてあげましょう。
 まずは【バスケを楽しむ】ということを教えてあげましょう。
 そういう筋トレとかは、練習メニューの内容をキツくするんじゃなくて、濃いものにすれば、自然と筋力も脚力もついていくものなのです。まま、マジメに選手たちがその練習に打ち込んでるなら、の話ですがね。
 んで、もっとゲーム形式のものを中心に練習メニューを組んであげてください。むしろ、ゲームだけでも充分に上達するはずです。
 センスの差でいろんな問題も出てくるかもしれませんけども、それはきっと仲間内で協力したり、自然と選手どうしで教え合ったりするものです。
 まずは【バスケを楽しんでもらう】に限るんです。
 向いてないなって自分で気づいたら、そういう子は自然と辞めていきます。「向いてないな」と感じた子は、まず楽しめなくなります。無理強いするのも良くない。
 それでも残る子ってのは、ホントに、純粋にバスケが楽しいから残ってるんです。楽しみたいんです。そういう子にとっては、試合がすべてじゃない。試合には出れなくても、楽しくみんなとバスケができればそれでいいんです。
 楽しいゲームじゃなきゃ、人の技術も盗めない。他の選手の技術をうらやましがらせることが大事だと思います。
 そして“座学”も大事なものの1つだと思います。
 ちゃんとしたカタチでディフェンスの動きとかを、1度はボードとペンを使って説明したり、頭で憶えてなきゃできなくて当然なのです。ちゃんと細かく説明してあげましょう。
 1年生は球拾いなんてバカげてるし、もっと技術と可能性を見てあげないと、あんな球入れ遊びなんて誰も楽しめないです。
 楽しく、上手に、美しく、エレガントに、魅了する ── それがバスケです。
<余談終了>

 人間について。
 【完璧】な人間ほど、実際には崩れやすい。でもそんなヤツはいない…でもその分野にだけは【ほぼ完璧】に近いという人はいると思う。でもそういう人はモロい。
 【自信喪失】というやつだな。
 こうなってしまうと、なにか励みがないと、きっと一生立ち直れないか、その場でそれを捨ててしまうと思う。
 大学院出で最先端だったり、インテリだったり、幹部だったとか、偉かったとか、あとは何とかカンとかって堅っ苦しい名前ついてる人は、特に。
 そして「どうせ…」という口実をつけて、それに背を向けてしまうんじゃないかと…


 「失うものがない人」っていうのは、「強い」っていうのとはちょっと違うと思ったりする。
 それはきっと【ムチャ】っていうものだと思う。何より、自分を守れない。守らない。捨て身っていうのは聞こえはいいけど、単なるムチャだと思う。
 それでもし、助かったとしても、その人はきっとそのあとも一生ずっと「私のせいで死んだ」という重荷を背負って生きてかなきゃならない。
 そのほうがキツいと思う。
 自分を責めつづけるっていうのは、経験したことはないから偉そうなことは言えないけど、それは生きてること自体が苦痛でしかないと思う。

 【弱み】
 これが、最高の【強さ】なんじゃないかと思う。
 恐怖が生まれる。不安が生じる。それが【強さ】を生む。
 人間の【本能】がむきだしになるから。
 だから、俺が思うに、一番の【強さ】っていうのは、子供を本当に愛する【親】だと思う。

  • 2006年7月 7日 11:27
  • 松田拓弥
  • Essay

ピアス

 こないだ、バイト先の便所で気づいた…

<ピアスが…な…ひ…>

 なんてこったい!?
 しかし、そこで俺は身震い…武者震い…悪寒…オカン…お母さぁぁぁぁん!!

 ものすごい喪失感…
 そりゃあもう、とんでもない喪失感の味わい…深い…深い…すごい…不快。

 たかが石コロだね。
 たかがピアスだね。
 たかがアクセだね。

 しかし俺は、そこで、鏡に映ったピアスのない左耳をつけた姿と見つめ合って、なぜか改信心したのです…

「せっかく親からもらった大切な体に…」

 オー・ノー!!
 オー・ジーサン!!
 オー・クリスチャン!!

 親からもらった体に、傷をつけたのです!!
 俺は…俺は…

 ………

 俺が俺であるために!!
 そうなんです!!
 親からもらった大切な体に己が傷をつけて、我が体に昇格させたのです!!
 親の体の一部から切り離したのです!!
 へその緒だって、もうない…生まれた時に産婆さんがきっと噛み切ったはずだ…
 小学校の夏休み、早朝ラジオ体操でマラソンがあって、そのときうしろのやつに押されてけっつまずいて道路に顔面の右側ひきずってかなり痛ぇ~…あぁイテェ~…
 親から授かった大事な大事な体は、その後俺がつけた傷でいっぱい…今は身も心も傷に覆われて、傷を身にまとってるようなもんだ…
 そうです。

 傷…
 それは…
 わが証。

 かのバーサンが言いました。
「人よりも多くを学び、人よりも多く傷を受け、生きる術を学ぶがよい…さすればやがて判るはずだ…おまえがこの世に生を受けた、本当の意味が…」
 まんまの受け売りだけど、これはかなりの名言だと思うのであります。

 そう、『傷』とは、その人がその人である証…刻印…印…道…タオ…ジュンタオ…すまん。

 無傷な人間ほど、弱いヤツはいない。
 傷の多いやつほど、強いやつはいない。
 無傷な人間ほど、傷を知らないやつはいない。
 傷の多いやつほど、傷を知ってるやつはいない。
 弱いから傷ができるんじゃない。傷がないから強いんじゃない。
 それは、優しさに大きな違いが出る……目に見えても、目に見えなくても。

 人間性を磨こうと思いつつも、俺はまたいつもと同じ俺のままで生きてゆくのであった…

  • 2006年7月 7日 00:55
  • 松田拓弥
  • Essay

ピクルス

 この1週間、まるでハンバーガーだけで過ごしたと言える。

 朝:なし
 昼:ハンバーガー3つ
 夜:ハンバーガー2つ

 飲み物は、いつもコーヒー牛乳である。やっぱり上手い…子供のころから、ずっとコーヒー牛乳に憧れておりまして…
 コーヒー牛乳って、ちょっとリッチな気分になれる…冷蔵庫に牛乳の豊富に並べられた家が、一番の憧れでした…
 なぜか…牛乳ってゴージャスな飲み物に…見える。

 今ではテリヤキとかビッグとか、いろんな種類が出てきて、キャンペーンみたいのになれば月見とかも、さらに種類が増えてくる。
 昔は…そう、まだ幼少のころは、俺もテリヤキとか、いや、ほぼテリヤキばっかり食べていた。
 なんでだろう?
 テリヤキとか、なんかああいう黒っぽくて脂のテラテラしたものに、ちょっと大人な雰囲気を感じていたのかもしれない。
 でも家では、そういうハンバーガーとかは、食べさせてもらえなかった。今では飽きるほど行ってる≪ドンキー≫も、≪吉野家≫も≪ギョーザ≫も、ファミリーレストランなんて≪とんでん≫しか知らなかった。
 つまり、それは買い食いというのを覚えてからのことだ。

 ピクルスが食えるようになったことに気づいたとき、俺は思った。
「俺も大人になったなぁ~」
 ピクルスだけ抜いて食べてた。なぜかマズく感じた。
 でもある日、それをマズいと感じなくなり、むしろ美味いと感じるようになったのが、その日だった。
 ピーマンもそうだった。今ではピーマンがとても美味い。色とりどりのパプリカを選ぶほどになった。昔はあのビミョ~な味加減がたまらなく嫌いで、ピーマンなんて食えたもんじゃなかった。
 ところがバッコン。
 今では「いつもよりちょっとピーマン多めに」といった具合でございます…

 …年を重ねるとともに、人間の味覚も変わるものなのかと、改めて思った日…

 それは、“タレント”、すなわち“才能”というやつにも同じことが言えるのではなかろうか?
 今ではもう【発明】なんてことは、まずあり得ないに等しい。
 今はもうオール電化住宅なんてものまであって、今から電気を発明しようとしても、それはもう“すでに”ある。
 たまたま先に見つけたってだけのこと。
 才能もそうだ。
 新しい才能を発掘したとしても、それはたまたま先に見つけただけのことだ。そこで開花したわけじゃない。
 もともとあるものを、先に発見しただけのことだ。

 たとえば、今の時代にもし、昔の人力車とかデカい自転車を持ってきたとしても、それはただのソレでしかない。むしろジャマになる。アンティークとして収集家に持ってかれるのが関の山だろう。

 野口氏もエジソンさんも、もし今の人なら、ただの人に過ぎない。

 こういうことに“もし”っていう単語を持ってくるのは、そもそもそれ自体が間違いなんだろう。キリがなくなる。
 でもそうやって考えないと、今の人たちには、先が見えないのかもしれない。
 自分の才能がわからなくて、自分の才能を見つけたいなら、まわりの人間と時代の流れをまず視野に入れるべきと言えるかもしれない。
 映画の脚本も、今からモノクロ映画や無声映画を作るとなれば、それはきっと【マニア向け】という貼り紙をつけられて世に出されるってなもんだ。それか、映画祭ノミネート作品という名ばかりの評価がつくだけに終わるだろうと思う。決して、「映画史上最高の観客動員数を記録!!」なんて予告編に出ることは望めないと思う。というより、予告編にすらお金をかけてもらえないかもしれない。
 今では、何でもかんでもゴチャゴチャにして、訳のわからないことが“新しい才能”と呼ばれたりしてるようにも映る…そんなときがある。


 しかしまあ、その“才能”ってやつも、いかにしてそこに気づけるかっていう問題なんだろうな。
 簡単に言えば、考え方の問題で、今となっちゃ“エジソンさんがいなきゃ、この夏エアコンなしだったんだな”なんてとらえるんじゃなくて、“エジソンさんがいたから、来年の夏まで待たなくてよかったんだ”とか考えればいいと思うんだな。


 “才能”も、その人と、その時代とにある、その“目”によって変わる。
 おじいちゃんは演歌が好きで、お孫さんは、ヒップホップが好きなように。

  • 2006年7月 6日 11:23
  • 松田拓弥
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