"Essay" にまつわる文章のリスト

「がんばれ」

 「がんばれ」って万能だと思ってた。
 万人に通用する励ましの言葉だと思ってた。
 でも“鬱”の人には、それは言っちゃいけない言葉だと知った。
 なんでかはわからない。

 鬱の人がいる。そして、そう言ったことがある。
 でもその人は、僕に「ありがとう」と言ってくれた。そして「がんばる」とも言ってくれた。
 笑ってくれた。
 なんでかはわからない。

 なにも知らない僕に、ムリしてくれたのかもしれない。
 僕はなんもわかってないんだろうか。わかろうともしてないんだろうか。
 その人からたくさんの話を聞いて、僕は僕なりにわかったつもりでいた。
 わかったつもりになってるだけなんだろうか。
 そして出た言葉が「がんばれ」だった。だから「ありがとう」だったのだろうか。

 なにをがんばったらいいのかわからない。
 がんばる理由がわからない。
 がんばったその先、なにになるのかわらかない。
 がんばったら、なにがいいんだろう。

 “がんばる”って、なんだろう??

 ものすごく曖昧だ。
 だからこそ、その人が今がんばってることがあるとき、そのことについての励みになる。
 別になんもがんばってなくても、なんとなくそんな気になる。そんな、なにもない自分が勇気づけられるのかもしれない。

 “鬱という診断を受けたら、少し気持ちが楽になった”
 その言葉を聞いたとき、ひどく疑問に感じた。だけど、なんとなくわかるような気もした。
 要は、気の持ちようなんだ。
 とりあえず病気ではないけれど、手元に薬があると安心する。そんなところと同じだろう。
 でも、なにもかもが受け入れられなくなると、自分すらなにがなんだかわからなくなってしまうんだろう。
 それによって、そういう状態の自分をまず受け入れることができるようになったんだろう。
 たったひと言“鬱”って言葉で。

 僕は“鬱”っていう状態じゃない。診断も受けてない。
 だからなにもわからない。自分が経験してないことは、どうあがこうと、完全にはわかるもんじゃないだろう。勉強だってしてないし、専門のお医者さんにどう対応したらいいか聞いたこともない。
 でも、わかろうとしてないんじゃない。
 わかりたい。
 僕の「がんばれ」が、みんなの「がんばれ」が、いつか絶対言っちゃいけない言葉じゃなくなるように。

 「もうほっといて」と突然言われた。
 ほっとけないんだよ。
 「もう生きててもしょうがない」とまでポツリと言った。
 でも、いつもそうかって言ったら、そういうわけじゃない。
 なにかのスイッチが入ったみたいに、なんの前触れもなく突然だったりする。
 そう言われたら、そうするのがその人にとっては一番良かったのかもしれない。死んでしまえば、だれも知らないんだから、本当に楽になれるのかもしれない。そう、誰も知らない意味で。
 でも、ほっとけないんだ。
 こういうお節介が一番の迷惑なのかもしれないけれど、そういう人たちを、そういう人たちもいるっていうことをただ、簡単に無視しないでほしいだけなんだ。

 その一方で、わがままや好きなことだけやってるっていうのが許されるってことに疑問も感じる。
 もしかしたら、それさえ苦痛とか意味がないとか思っててやってるのかもしれないけど、程度が違うっていうだけで、楽しそうに会話することもあるから。
 でも、そのおかげでっていうのはおかしいかもしれないけど、それによって嫌いなことを放棄できたり、自分のわがままを人に聞かせるだけの強制力が与えられたような状態には、怒りさえ感じる。
 自分は病気なんだからって、人の気持ちにも我が物顔だ。
 基準がすべて自分だけになってる。医者でもない。友達でもない。親でもない。
 それこそが、なにもわかってない証拠なのかもしれない。
 でも、単なる甘えだったり、正式な名前がついたかどうかの差にしか思えないときがあるのも事実。

 その人にも気持ちがある。
 人それぞれにそれは違う。
 みんなと同じっていうのが受け入れられなくなったんだろうけど、やっぱりみんなと同じで安心するんだ。
 なにを求めてるかって、みんなであり、そんなみんなのなかにいる自分なんだ。
 それは痛いくらい伝わってくるんだけど、その自分自身がそれを見失ってんだ。

 だから、サジを投げたくなる気持ちもわからなくはない。
 どうしたらいいかわからないんじゃない。
 自分がどれだけ心配しても、なんの解決にもならないんじゃないか。薬やなんかじゃなきゃ、助けてもやれないし、なんにもならないんじゃないか。なにもしてやれない自分への不甲斐なさ、無力さ。そして、それを嘆いたところでなにも変わらないし、わからないこと。それすら無視されてしまうということ。わかろうとしても、それすらムダに思えてしまう。
 それがきっとうちの親父だったんだろう。
 それだったらそれがわかる人、自分はそれ以外の、自分にできることでがんばろうって……そやって親父はがんばろうとしたんだろう。
 自分は見えなくなってもいい。見えるようになったとき、いつでも帰ってこれるようにって。自分は自分でやれることをやっていこうって。
 ……なんか泣けてくる。
 そのときのおれは気づけてやれなかった。その気持ち。
 すごい優しさだ。

 今がんばれることがないんなら、がんばれることが見つかるように、今からがんばればいい。
 なんのためにがんばるのかがわからないなら、わかるまでがんばってみればいい。
 がんばった先になにがあるのかは、がんばってみなきゃわからない。
 いいか悪いかは、きっとあとでわかること。良かったと思えたら、またがんばればいい。ダメだったら、もう二度と同じことを繰り返さなければいいだけのこと。
 がんばることを答えだと思わないで。

 こういうことを書いてること自体、もしかしたら“鬱”っていう状態をわかってないのかもしれない。
 だけど、僕は「がんばれ」と言い続けたい。
 がんばれるのは自分しかいない。きっと誰も好きでなったわけじゃないんだから。
 「がんばれ」って言葉を受け入れられた日もあったんじゃないかと思う。
 そして、そうやって笑い合えた日が。

 僕は思う。
 でも僕には「がんばれ」としか言えないだけで、それに頼ってるだけなのかもと……
 やっぱり、安易になんの用意もなく、簡単に口にしちゃいけない言葉なのかな。「がんばれ」なんて不用意すぎるのかな。
 マジメにいろんなこと考えたりやってきた人が鬱になるんだって聞いた。
 もしかしたら「がんばれ」っていう言葉が一番不器用なのかもしれない。

 でもやっぱり僕は、その人とまた、笑い合って話したい。
 それだけだ。
 でもやっぱり、その人だけじゃない。
 「がんばれ」
 みんなとまた一緒に笑い合おう。

  • 2006年9月17日 00:27
  • 松田拓弥
  • Essay

not SEX

【人間の3大欲求】だという。

 食欲。睡眠欲。性欲。

 いや、違うな。最後が違う。

 食欲。睡眠欲。知欲。

 腹がへれば食べたくなる。
 起きてりゃそのうち眠くもなる。
 ただ、性欲ってやつが……どうも違うような気がしたこの頃。

 そこは“知る”ってことだと思うわけよ。
 そのなかに含まれてるもんなんじゃないかと思えてきたわけ。
 気になる人がいると、その人のことを知りたいという気持ちが、どこからともなく沸いてくる。
 で、その人を知っていくっていう過程のなかにセックスだとか、性欲っていう部分があるんじゃないかと……
 はっきりしない。自信もない。
 おれも男だ。
 やっぱり人によってセックスだとか、性欲っていうものに対する考え方というか、とらえ方が違うとも思うわけだ。
 “セックスレス”っていう言葉が一気に表面化してきた。
 思いっきり衝撃を受けた一人。
 性欲っていう部分が、特にこれといって必要ないってことだろうという解釈。
 いや、あるいは、ただセックスに関してはあってもなくてもいいというだけで、性欲は沸くという感じ。
 この違いだけで、そうとうな違いがある。

 しかしだ。
 やっぱり、セックスってのは、相手を知る上での通過点だと思う。
 良く言えば、大切なスキンシップの1つ。悪く言えば、たかが通過点。
 愛し合う2人には、それは自然な行為だとも言う。
 ここで“自然”という言葉は、“誰の基準で”とか“人によってそれは違う”とか、しょうもないツッコミはしてくれるな。
 その人のことを知りたいと思ったら、やっぱり性に関しても知ってみたいと思うと思う。
 どちらの意味でも“性”というものを意識してるってのが前提なんだし。
 でもその部分には興味はないという人もいるだろうか。
 いや、でもやっぱし、その人を知るってことは、その人が性に関してどう思ってるのかってことも知るってことも含まれるだろう。含まれてなきゃいけないとも思う。
 その人がそこには興味ないっていう考えなら、それを知るってことでもあるわけだ。
 もしその人が点描ならそのなかの1つ。構成する1つの要素。
 裸を見てみたい。触れたい。寄り添いたい。すべてを知りたい。
 これは男ならではなのかもしれないけど、どんなセックスするんだろうとかにまで及ぶ。偏見とも言えようか。いや、これは単なる僕の個人的な嗜好だろうか。
 だからこそ、“飽き”っていうのがくるんじゃないかと……

 その人のことをある程度知ってしまうというか、その人に関する自分のなかにできた抽斗がいっぱいになってしまったとか。
 やっぱり“飽きる”っていう気持ちってのは、自分のなかで納得できるまである程度それができるようになってたり、ただ単に興味がなくなったり、そういう感じで区切りがついたときだと思う。
 あるいは、できないっていうことで、諦めに近い感じだったり。
 浮気だって、その人だけじゃ飽き足らず、ほかの人とのセックスに興味を感じたり、ほかの人へのかるい興味で、恋人以外の人も知りたいっていう欲求の表れなんだと思えてくる。
 恋人に対する性の興味が薄れただけで、ほかの人への性欲はあるし、それが消えたわけじゃないから。
 いや、むしろ、恋人とのセックスが、どれだけ本気なのかって試したくなるってのもあるだろう。浮気って、実際には恋人への探求心が薄れたわけじゃないんじゃないか。

 しかしだ。
 これまた、しかし。
 男の場合、たまればヤリたくなる。誰でもいいとさえ思えてくる。無性に女を欲するときがある。
 でも女性の場合、そうでもないらしい。
 とはいえ、それは男から見た女性像であって、さらには僕個人の美化しがちな見方だというのが多分にある。
 女の人だって、ヤリたくなればヤルだろうし、言い方は違えど、たまればヤリたくなるんだろうと思う。そういうときにはやっぱり誰とでも寝るんだろうし、無性に男を求めることだってあるだろうと思う。
 知りたいとか以前に、ただ単にその人と“セックスしたいかどうか”だけが基準になりそうな気もする。
 男と女の浮気は、質が違うってイメージがあるんだろうが、そんへんはきっと同じだろう。
 けっこう女性っていう性を美化しがちな僕だけど、そのへんはけっこう冷めてる。
 男も女もみんな一緒で、女は女でみんな一緒で、男も男でみんな一緒だ。
 男だけが浮気する動物ってわけじゃないし、現実的なのは女だけじゃない。どちらも理想は必ず持ってる。
 だってみんな同じ人間なんだもの。

 男と女は、本質がもう違うってなんかの本に書いてあった。
 それは僕も思う。
 でも本質そのものは、同じ人間だ。
 たぶん男ってやつは、女の人を美化したがるようだ。
 ただ女の人は、そのへんを割り切ったように男のすべてを口で言う。あくまで口ではだ。個人的にはそこを小突くのが好き。
 まあ、女の人について考えるときはきっと、あたかも世界中の全女性が自分の恋人だというような空想のなかにあるんだろう。
 それで、もし自分の恋人が誰とでも寝るような女だったらとか、部屋がメチャメチャ汚いとか、うんこしてる姿とか、そういうイメージが沸いてしまって、そんな女はイヤだとか認められないっていう勝手な基準でとらえてしまうんじゃないだろうか??
 いつまでも美しいままであってほしいっていう期待だったり。
 というより、そもそも女性っていう存在そのものを現実として、ちゃんと受け止められないのか……ましてや恋人なんて言ったら、女神さながらか。
 男も女も、所詮セックスは性欲の解消にすぎないんだろうか??
 そこに気持ちっていうのが常につきまとうから、快楽とかと一緒に結びつけたがってしまうのか??
 いや、むしろ感情っていうのをそこに結びつけたがってるだけなんじゃないか??
 切り離したら、きっとすごい楽になるだろうと思う。
 でもそれができない。いや、ただしたくないんだろう。
 感情っていうものはオプション・サービスみたいなもので、それがあればより高まったり昂ぶったりできますよみたいな補足説明がつくもんなのか。
 快楽と快楽のぶつけ合いなのか……
 欲望どうしのセッションなのか……
 だからか??

 いや、違う。話が逸れてる。
 いや、完全には逸れてもいない。微妙にかじってる。
 だから余計にタチが悪い。
 いろんなことが頭のなかで飛び火する。
 男も女もたくさんいる。
 ……待て。
 セックスと性欲自体、別モンなのか……
 でも性欲ってのは、どうしてもセックスへと結びついてしまう。憧れだったり、その性の対象への欲求だったり、不満だったりする。
 浮気されたからとか不安だったとか、ただ淋しかったは抜きにして。
 でも性欲ってのを考えるとき、そういう理由は抜きにできないのか??
 それこそ、なんとなく人肌恋しいとかってのがある。ただ無性にだったり、たまたま目についたとか。
 まあ、人肌恋しいと性欲は、必ずしも結びつかないんだけど。
 いやいや、理由なんてもの自体がいらないのか??
 欲求は欲求か?? 衝動は衝動か??
 でもその欲求も、少なからず理由があるはずだ。
 それが“相手を知りたい”っていうのじゃないかと思うわけだ。


 ……また振り出しだ。
 それも大事ってことなだけか??
 さっきも書いたように、それもそのなかにあって“その人とセックスしたいか”とか“その人を求めてるか”っていうことなんだろうか。
 なんかそんな気もしてきた。
 でもやっぱり、セックスとかでは、精神的な満足というか、満たされるっていう気持ちが一番大事だと思える。
 出さなくても、なぁ~んか満たされたなぁ~って感じるときも多々あったし……いやはや、個人的なことで申し訳ない。

 性欲は年齢とともに老いてゆくとも聞く。
 でも老夫婦は、相手を思いやり、相手を知っていくことをやめたりはしない。
 セックスだとかそういうことはもう超えた関係だとは言えないけど、たぶんどんなに年を取っても“知る”っていうことへの欲求は衰えないだろう。
 うん、そうだ。
 違った。
 別にセックス云々の話をしてたわけじゃない。
 “知る”っていう欲の話だった。

 だからやっぱり、性欲よりは“知欲”だと思ふ。

  • 2006年9月16日 03:01
  • 松田拓弥
  • Essay

ありがとう

 会えないことがつらいんじゃない。
 ただ会えることが嬉しいんだ。


 いろんなことがあたり前になってくると、それに対する感謝の気持ちってのが、それ以上のスピードで薄れていくような気がする。
 ないのは困る。
 だけど、あってあたり前。
 空気に改めて感謝を示す人は少ないかもしれない。無意識のうちに、呼吸できてるってことで、それを感謝だとする人もいるかもしれない。
 いや、これはちょっとたとえが間違ってるかも。

 たとえば、“お昼のお弁当”とか。
「あ、そういえば、今日の弁当は?」
「ちょっと忙しくて作れなかったの」
「は? じゃあ、今日どうすんだよ」
「どうすんだよって……そんな、もともとあるものじゃないのよ」

 たとえ話2 “約束のない約束”の巻。
「今からだいじょうぶ??」
「ああ、今日ちょっとムリ」
「えぇ~、マジ~??」
「マジ」
「約束はしてなかったけどさ、いっつも会ってたじゃん。だから今日も会えると思ってあけといたのに……」
「自分のことぐらい、自分で決めさせてくれよ」

 やっぱし、感謝の気持ちってのは大事だと思う。
 そして、それは思ってるだけじゃダメだ。伝えなきゃ、それはたいして意味がないんじゃないかな。
 モノじゃあるまいし、やっぱり相手は同じ気持ちのある人間なわけだから、伝えなきゃ伝わらない。
 空気とかモノなら、そのために何か自分ができることをやればいい。
 で、さらには「いつもごめんね」とかじゃなくて、やっぱし「いつもありがとね」のほうがいいかと思う。
 なんとなくだけど……申し訳ないって気持ちからだと、どうも皮肉というか、ささやかな悪意というか、卑屈というか、ちょっとばかりの引っかかりを感じてしまう。
 個人的な感覚かもしれないけど、謝られると、なんかそこに他意があるように思えてしまうときがあったりする。謝られることで、何かこっちにも悪かったことがあったんじゃないかとか、こちらまで変に恐縮してしまったり、負い目というかプレッシャーまで感じてしまうことすらある。なんかもう、それ以上なにも言えなくなっちゃうし。
 ただそれを言うと、素直にそのまま「ありがとう」って受け取るってのも、遠慮もなく図々しいとか思う人もいるだろう。
 でもやっぱし、気持ちがいい。
 それでいて、なんか純粋というか、素直な感じがする。
 一発でわかりやすいような気もする。

 そういうことをたどっていくと、どうも最近、人から「ありがとう」って言ってもらったことが少ないように思える。
 なにかにつけて「あ、すいません」とか「ごめん」とかで返ってくるような気がする。
 波風が立たない。
 まあ、それは「ありがとう」でもそうだろうけど。
 波風立てようってわけじゃない。
 先に折れておいたほうが、なにごとも円くおさまるってことなんだろうか。そういう環境から得たみたいなことを体が条件反射みたいに反応するってことなんだろうか。
 それとも、たいして本当にそんなこと思ってなくても、平謝りって言葉もあるぐらいだから、そっちのほうが簡単なだけなのか。
 楽なほう、楽なほう……

 お願いと不本意。
 いや、成就と不本意。
 こっちか?? 結果か??
 ちょっとそれ取ってくれる? ああ、いいよ。はい。ありがと。
 鉛筆を落としてしまった。それを拾って手渡した。ごめん。
 その使い分けの基準はわからないけど、やっぱり「ごめん」とかのほうが多い気がする。
 鉛筆が転がってきて、それを拾って手渡して「ありがとう」って言ってもらえたからって、“よぉ~し、全部拾ってやるから、どんどん転がしてこい”とは思わないけど、また次への意欲が沸くんだろうな、きっと。
 まあこれも、特別なこと言ってるわけでなくて、たぶんこれこそがあたり前のことなんだと思う。
 鉛筆が落ちて自分のほうに転がってきたら、そんなことで感謝されるいわれものないほど、それは拾ってあたり前だ。

 「ありがとう」のほうが素直ってことなんだろうか。
 だから、それをまた素直に伝えるってことが難しいんだろうか。
 もし僕がお弁当を作ってる身だとしたら、やっぱり「ありがとう」のほうが、なんとなく嬉しくなりそうな気がする。そっちのほうが、なんとなく優しい気がする。
 会えること、お弁当がそこにあること。
 無意識のうちに感謝して、無意識のうちにそこには約束ができてて……
 どちらもがあたり前と思えるほど、遠く離れることはないってことなんだろうか。
 そんな締めでもいいかもしれない。
 でもホントは、ものすごく遠くて尊いものなんだ。
 たぶん、そんな言い方だとかはどうでもいいから、そういう気持ちを素直に伝えてくれさえすれば、それだけで嬉しいんだろうな。


 会えないときはこれまで、いくらでもあった。
 だから会えたときを素直に、ありがとう。

  • 2006年9月12日 00:34
  • 松田拓弥
  • Essay

グー・チョキ

 “神様”って、1人じゃなくていいのかもね。
 つらいときに神頼みってしたくなるから、もし神様が1人だけだったら、神様だって大変だ。
 全部が全部助けられない。
 神様って万能らしいから、体が1つだけじゃないかもしれない。それでもきっと、息切れするだろうし、病気にもなったりするかもしれない。風邪で寝込んだり、今日はちょっと疲れたから人並みに“サボり”とかあってもいい。
 つらいときだけ神様に頼ってたんじゃ、神様だってサジも投げたくなるだろうさ。
 でも何かあったとき、感謝されるのも神様だから、そうも言ってられないんだろう。
 まあ、こんだけたくさんの神様がいるのに、助けられる人と助けてはもらえない人がいるってのは、そのへんを口実にすることもできるんだろうけど……
 お賽銭だって、子供にあげるお小遣いの10分の1にもならないさ。
 助けられた人だけが信じて、そうじゃない人は信じなくなるって、それじゃ神様も
商売あがったりだ。
 まあそれでも1人で全部聞いてたら、芸能人さんたちがファンレターは全部は読みきれないけど、だけどファンはみんな大事にしたい、そんな感じになるだろう。
 歌が下手だったり、100メートルが遅かったり、なんかやけに体育会系だったり、そんな神様だっているかもしれない。すごいばっかが神様じゃないだろうさ。まあ、ただ単にそっちのほうが楽しいのかな。
 信じ合って、認め合っていけばいいさ。

 なにが良くて、なにが悪いなんて、そんなのきっとどうでも良くて、そこへ行ったら手を合わせたり、決まった時間に礼をしたり、なにもなくても感謝するって、そういうことが大事なんだろう。
 そやって信じてる人みんなが、そんな自分自身を神様だと思えばいい。
 もちろん、万能とかじゃなく。
 そしたらまわりの人に感謝するし、傷つけないだろうし、つらいとき、あたり前のように相談もするだろう。

 人間を創ったってのを神様にしたいんなら、最初の人間でいいと思う。
 でも、その最初の人間を創ったのはって話になるなら、それは自然でいいんじゃないの??
 でもそれじゃあ、文明社会が聞いてあきれるってもんなのか??

 まあ僕は、無心論者ってわけじゃないけど、とはいえ“神様だっていたっていいんじゃないか??”ぐらいの感じだから、そんな壮大な映画になるようなことは言えたもんじゃない。
 なんとなくってな、そんな軽い感じで言っちゃいけないことかもしれないけど、まあ、その神様の背景だったり背負ってる歴史なんてクソ食らえだな。
 ちっちゃいころ、“毎朝、学校行く前、この石に触らないと悪いこと起きる”ぐらいの気持ちと同じレベルだ。
 全部なんて読んだことはないけど、やっぱしどの経典にいたっても、おおまかには“愛”とか“自由”とか“平等”とか、やっぱりあとは“平和”とかか??
 なんかそのへんの、どんな人に対しても通用することを説いてるんじゃないかと思うわけよ。
 で、それって誰もが願ってたり思ってたりすることでもあると思うわけよ。
 あとはまあ、断食だの無我だの生まれ変わりだの何だの、なんかいろいろあるんだろうけど、生まれた土地とか環境でそれが決まるってのはおかしいと思うわけだな。
 それが人種差別だの宗教差別につながってたりするのかなと……
 だからつかまえとく神様なんて、たいして目的もない高校選びと同じで、とりあえず“近いから”でいんじゃねぇの?

 おっと、話の規模がデカすぎて、延々終わらない気がしてきた。
 まあ要は、そうやって信じる人がいる限り、みんな1人ひとりが神様でいいんじゃないかと……
 神様を1人だけってするよりは、みんな神様にしちゃったほうが、1つのパイを取り合うようなケンカも起きなくていいんじゃないかなと簡単な結論。
 その裏にどんな歴史があろうと、誰もが平和や自由を願うなら、それに向けて宗教自体を1つにするんじゃなく、考え方を1つにすりゃいいんじゃないかと思ってしまう。
 軽いな。
 うん、そうとう軽い。
 やっぱ、その歴史にどれだけの血や思いがあったかも知らず、こんなこと軽々しく言うもんじゃないか……
 でもこれ以上の血を流さないために、今なにができるかが大事なんじゃないかな。
 いまだに宗教とかの紛争が続いてるわけで、そのへんが変わらないとずっと変わらないんじゃないかな。
 まあ、聖書とかを見てみるけど、もしこんな宗教ができようもんなら、これ1ページぐらいで書き終わるなんざぁ~、全世界の人の心を突き動かせる宗教なんかとは比べものにならないぐらいお粗末な経典だな。

 しかしねぇ~……
 「オレは神様だ」とか言って何したっていいとか言う人も出てくるだろうから……
 って、そこまで考えないといけないんだろうか??
 “愛”とか“自由”とか、そういうのは感じ方も考え方も、そういうことすべてを“人それぞれ”っていう言葉で片付いちゃうのも事実だけど、本当にそれでいいんだろうか??
 本当にそれで子供たちが将来、国境や人種も越えて、手を取り合って笑い合って過ごしていけるんだろうか??
 言うだけタダっていうように、願うだけタダなんだろうか??
 僕もここで言うだけタダかもしれないけれど、誰もが願えば何かが変わるんじゃないだろうか??

 僕は子供が大好きだ。
 やっぱり何かしたい。僕も僕っていう世界のなかでは笑って過ごせた。つらいこともあったけど、楽しいこともあった。
 どっちが多いっていうのは関係なくて、楽しく笑って過ごせたことが大事なんだ。
 そして今、僕ももういい大人と呼ばれる年だ。
 でも僕にも子供時代はあった。
 そのとき、その時代のいい大人たちが僕らのために、きっと何かしてくれたに違いない。そう思いたい。
 僕はなにを受け継いでるのか。
 そして、なにを残せるのか。

 なにを一人勝手にヒーロー気取りで、誰も頼んでもないのに使命感みたいなの背負ってんだとか言われそうだ。
 でも、なんかそういう気持ちが僕のなかのどこかに欲しい。
 なにができるかはわからない。
 でも、なにかできるんだっていうものが欲しいだけかもしれない。
 なにかをしようとして全部こなせるような、万能な人間なんかじゃない。
 でも、その子にとって神様みたいな存在になりたい。
 “ありがとう”って言ってもらえるような、そんな存在……

 あ、いや、なんかおかしい人みたいな書き方になってるな、こりゃ。
 あ、いや、でも、間違いってわけでもないんで、ここまで書いちゃったらもう、いかんともしがたい……
 引っ込みもつかないので、とりあえずこのままUPじゃ!!
 でも、自分の言葉に嘘はない。
 たまにはデカいことも言ってみたい。
 ちょっと弱気……
 いやいや、これも僕の思ってることだ。
 強気でいけ、強気でぇ~!!

 と、それ以前に、神様自体が正義だとか善とは限らないんじゃないのかなと思ってみたり。
 それが原因の戦争なんかが世界中で起こってるわけだし、「キリストミサイル発射!!」とか「シャカシャカ爆弾投下!!」とか言われてたらシャレにならん。
 とはいえ、原因がそれだからって、それが悪とも限らんわけで、歴史とかも関係してるんだろうし、そんななかで善悪を判断するほうが難しいのかもしれないし……
 ……はぁ~、実際にはこんなだから戦争だとかが起こるんだろうか。

 なにが悪でなにが善とか、どれが唯一とか正しいとか、そんな答えがないからか……
 もし本当にそうだったら、なぜ戦ってるのかもわからないじゃないか。
 なんのために戦ってるんだろうって感じる人はいないのか??
 だけど、ヤラなきゃヤラれる……そのために戦うのか??
 そんな理屈でもあれば戦えるのかもしれないけど、そんなことで戦うのか。
 僕の知るの宗教って、そういうのをやめるようにと説いてるものだと思ってる。
 そこからなにが得られるんだろうか……
 戦争が終わらない限り、戦争はなくならない。

 LOVE & PEACE
 グー・チョキ

  • 2006年9月11日 03:09
  • 松田拓弥
  • Essay

想う

 泣いた。
 涙が出てきた。
 止められなかった。

 その大事な人のことをしゃべっていたら、まるでさざ波のように静かな涙が押し寄せてきた。
 最近その人とのあいだに、なにかしらわからないけど距離を感じるようになってしまっていた。
 でも明らかに態度でそう示されてるとかじゃない。それはなんとなく、肌で感じるもの。感じてしまうもの。
 実際には、そんなの勝手な妄想なのかもしれない。
 触れられるものじゃない。触れたわけでもない。目には見えない。形もない。お金じゃ買えない切符がある。
 どうしても、こらえることができなかった。
 でもこれは、流していいもんだとも思った。だれも見てない。我慢することでもない。そんな制限だってどこにもない。
 でもやっぱり、がんばっていた。
 上を向いて、下を向いて、深呼吸して、また大きく息を吐いて。
 でもダメだった。
 こぼれた。
 そして、1度流れてしまった涙は、もうなにをやっても止められなかった。
 しゃべりながら涙を流し、それをまた戻そうとするかのように鼻をすすった。咳も出る。
 ムリに泣くのをやめようって思いながらも、自分でもどうすることもできないっていう葛藤みたいなグルグルの渦巻きのなかにいる感覚。
 あふれた瞬間、それまでの倍以上にも光が増えたような錯覚に陥る。景色が歪む。床もにじむ。いつの間にか自分の手のひらが目の前にある。
 とめどなく涙が落ちていった。
 それは、そこにある気持ちや言葉も同じだった。

 熱くなる。
 泣くと、体が熱くなる。
 まるで火傷しそうなラーメンをムリしてでも、湯気のもうもうと上がっているうちに食べようとしてるような感じ。
 だけど汗は出ない。
 泣いたときの熱は逃げていかない。逃がす必要もない。しばらくのあいだ、そこでこもってる気がする。
 ただ、その熱を感じていた。

 まつ毛が濡れてる。
 朝露のように、景色の上に浮かんで見える。
 しゃべってるあいだ中ずっと、涙が途切れることはなかった。
 だけど、それはやがて止まった。
 全部吐き出したんだと思った。
 大切だと思う気持ち。
 距離を感じるようになって、そこから生まれてきた不安や葛藤、後悔、それまでの感謝、いろんなこと。
 修復したいという願い。
 だけど、涙が止まったときは不思議に思う。なぜ泣いていたのか、一瞬わからなくなる。
 気持ちよくて、清々しささえある。
 まるで夜明けみたいだ。

 とめどなくあふれる気持ち。
 一緒に流れる涙。
 どちらも大事で、どちらも熱い。
 “心の汗”とかなんとか言うけれど、乾いたとしてもにおわない。
 本当に怒ったとき、泣けてくるっていう人もいるだろう。
 でも逆に、ものすごく冷静になるっていう人もいるだろう。
 “女の武器”ともいう。
 でもそこには、その人なりの何かがあって、それによってそれが人の心を動かすだけの気持ちがあるってことなんだろうと思う。もし騙すにしたって、それだけ大きなものがあるってことで、簡単に人の心なんて騙せるもんじゃないとも思う。
 涙って、やっぱりものすごく感情がたかぶったときにあふれてくるものだと思う。
 きっと心の限界点みたいなもの。沸点でもいい。
 その気持ちや出来事を心だけじゃ受け止めきれなくなったときそれは、あふれて、こぼれる。
 言葉以上に、言葉も含めて気持ちを語る。その気持ちがあらわれる。
 言葉や気持ちにそんなのおかしいのかもしれない。
 でも、それらの究極が“愛”であるなら、そう信じて、そう呼びたい。

 想い。
 結局、涙は人のために流すものじゃない。誰かのために流せないし、流れない。
 自分のためであり、自分の上に流れてゆく。
 それを見守ってくれたり、拭ってくれたりするのが人っていうだけのことだ。
 悲しいときや苦しいとき、つらいときには泣いてしまう。自分自身を支えきれなくなったりする。
 だけど自分の涙が流れて改めて、またその気持ちに気づいたり、わかったりする。実感する。
 想うこと。願うこと。
 がんばろうとか、負けないぞとか、大切さとか……
 嬉しかった。

 言葉や気持ちにもし、形があるとするならば、それが涙なんじゃないのかな。
 愛ってやつも、そんな形をしてたらいいな。

  • 2006年9月 9日 00:07
  • 松田拓弥
  • Essay

追い風と向かい風の吹きすさぶ道のり

 大切な人がいる。すごく。
 すごく大切だ。同じぐらい大切だ。
 大切な人に優先順位なんて、そんなものつけるほうがおかしい気もする。
 大切な人は、そのまま“大切な人”でいいと思う。
 まあ、それはいいとして、ひさしぶりに会えるらしい。

 1人は遠い。ただ遠い。とにかく遠い。
 もう1人は近い。ただ時間が合わない。とにかく合わない。

 が、しかし、同時に2人とは会えない。
 そして、それは突然だった。
 そんな脅威のダブルブッキング。

 こんなとき、どちらと会うべきなんだろう??
 やっぱ、どちらかとは会いたいわけ。
 でもこれだと、さすがに優先順位ってことになっちゃうんだろうか??

 遠路はるばる遠いところから、わざわざ会いに来てくれるという。
 でもそれは、ただ遠いというだけだ。時間はいくらでも融通がきくらしい。
 結局、お金とかの問題になっちゃうんだろうか??
 気を遣ったりしてしまう。
 “遠路はるばる”っていう言葉で、申し訳ないっていう気持ちが湧く。
 不思議なもんで、こういうときってやっぱりお金ってやつは強く感じる。
 まあ、そこにある人間関係の大切さは、お金とか、そういうことじゃないってのは、お互いにわかってる。
 でも、そうとばかりも言ってられそうもないのが、人間関係ってやつなんだろうとも思う。
 きっとこの機会をむげに断ろうものなら、たぶん“せっかく行ったのに”っていう言葉の1つや2つ、浴びせられるのは間違いなくあると思う。
 あからさまなそれはなくとも、“会えないんだったら、もっと早く言ってよ”とか、皮肉にも似たことをダラダラと言われそうなもんだ。先にわかってたら、きっとそうしていたに違いないさ。
 やっぱり、こういう気後れだとか、迷惑だとか、そうやって自分に降りかかるであろう面倒な未来の出来事も予定のうちに入れて考えるに違いないな。
 とはいえ、それも間違いない。
 浴びせられて当然といえば、そうかもしれない。

 近いのに、会えない。
 これはどうも難しい。
 “暇は自分で作るものだ”というのがデキる人の言葉らしい。
 本当に大切なら、眠る時間を削ればいい。
 いや、さすがにデキるデキないのことじゃないな、きっと。
 そのへんでその人の気持ちを量る人は、けっこう多いと思われる。
 本来なら、メール1つ送って、ひょこっとそこに現れれば、簡単に会えそうなもんだ。
 でも実際には、案外そうでもないようだ。
 あっちこっち出張に行ってるわけじゃない。家にいないわけでもない。
 でも会えない。
 世の中には、本当にこのタイミングというやつが厄介らしい。
 ただこの場合、もしこちらを断ったとしても、そのときはまたそれまでと同じ言葉を繰り返すだけで済むだろう。
「それじゃあ仕方ないよね。またね」
 いとも簡単。後腐れもない感じ。
 今回のちょっとしたイベントが、またいつもどおりの平日に戻るだけのことだろう。
 ただちょっとその日、残念な気持ちが尾を引くだけで、あとはなんら問題のない1日を送るだけか。
 その日の終わりに電話で話しとかしてみたりするぐらいかな。

 物理的に遠いほうには、犠牲が生じる。
 一般的にはお金だろうなぁ~、やっぱし。
 飛行機代はバカにならない。そこまで離れていなくとも、車のガソリン代、電車代、タクシー代……
 とにかく、移動するには、いろいろと消費するものが多いわけだ。時間は当然だ。
 でもって、そういう犠牲っていうものに、人間ってのは弱いんだと思う。
 社会に出て、世の中ってやつを身をもって知り、時間に追われてるような感覚で生活を続けていくなかで、自分がお金を稼ぐようになったらば、なおさらかと……
 人の痛みを知るっていうより、それはきっと、自分の痛みが先にきてしまうんじゃないだろうか??
 まあ、もし自分がそれをやられたらってことで、人の痛みを知るってことかもしれないけど……
 たぶん、そっくりそのまま自分にも、あとからその犠牲が重くのしかかってくるだろうってわかっちゃうことなんだろう。気が重くなるだろうし、なにより面倒って感じちゃうんだろうな。負い目とか借りとかっていう形で……
 たぶんそこまで考慮に入れた上で、決断を下すことだろうと思われる。

 でも、どうしても僕は違うようだ。
 僕としては、やっぱしどうもこちらのほうが“遠い”という感じを受けてしまう。
 この“近いにも関わらず、時間だとかいろんなタイミングが合わなくて、会えない”っていうニュアンスに、ものすごい距離を感じる。
 “そばにいるのに遠く感じる”っていうのは、本当にすごく距離を感じてるってことだと思うわけだ。
 “遠いけど近くに感じる”ってのは、逆にものすごく親近感というか、今もう同じ場所で一緒にいるんじゃないかっていうぐらいの距離感でいるような感覚にあるときじゃないかと思う。
 いや……なんかこのたとえは、微妙にズレてるような気がしないでもないけど、なんかそんな感じな印象なのだな。
 さらに言えば、恋の話。
 ホント目と鼻の先と言ってもいいような同じ地区に住んでいながら、もうずっと会ってない。見かけることもなくなってしまった。
 別れた恋人。
 今となっては、車で何時間もかけなくちゃ行けないようなところに住んでる人とのほうが、会っているという事実。
 ものすごい疎遠な感覚にあるときふと、襲われることはないだろうか??
 うん、やっぱり巧妙かつ絶妙にズレてるかと……
 もっともらしくて似てそうだけど、やっぱ違う。人によっては“なるほど、そうかも”ってうなずいてくれるかもしれない。
 でもこれ以外に、いいたとえが思いつかなかった。

 僕の結論。
 とりあえず親戚か誰かを事故らせて、どちらとも会わないかも……
 はい、これは一番卑怯な回答です。というより、やる気ない。
 いやいや、僕に限ってそんなこたぁ~、まずあり得ないな。
 なにはともあれ僕としては、“近いのに会えない”というほうの人と会いたい。
 やっぱり“これを逃したら……”っていう考えのほうが大きくなってくと思うわけよ。しかも、考えれば考えるほどに。
 まあ、それを言っちゃ~“遠い人”のほうもそうなんだけどね。むしろ、帰りに何かあったら次は永遠にないということもあり得なくもないわけで……
 “近いのに会えない”っていう人との距離を、また取り戻せたらとか思っちゃうだろうなぁ~と。
 それとも、大切な人には優先順位なんてつけないとか言いながら、やっぱりどこかでは“実際どっちの人と会いたいか”っていう感じで、そういうのが少なからずできてしまってるんだろうかとか……
 その相手の人の性格によって決断は変わるだろうとか、甘えてみたり……遠くて怖い人だったらそっちと会うとか、遠くても「また来てよ」とか軽く言ってのけるかもしれないし。
 いや、“近いのに会えない”ってのは、実際には“会わない”ってだけなんだろうか……
 これを言ったら、もう振り出し以前の問題になっちゃうよな……やめとこ。

 やっぱりなんだかんだ言っても、そばにいる人のほうが強いってことなんだろうな。
 とはいえ、遠い人も実際に来てくれるわけだし……でもその頻度で考えれば、実際そばにいる人ともし、会えるようになってしまえば勝てないだろうってことを期待するってことなんだろうな。
 そうか!!
 こういうことにはそこに“期待”ってのが入り込んでくるようだ。
 そう思えてきた。
 どちらを優先とかじゃなく、どちらにその後の期待が持てるかってこと。
 それこそまさに、会いたいときに会えないって寂しさのなせる業なんだろうか……

 う~ん、やっぱりまた話が最後までまとまってないような気がしています。
 というより、なんの結論も出ていない。

 とはいえ、実際にこういうことがあったっていうわけではないので、そのときになってみないことにはわからないんだけども……
 とか何とか、最後に“ト書き”みたいに付け加えてみたりして。

 バイト中にこんなことを黙々と考える僕は、ここでの将来になんの期待も持てなそうだ……
 まあいいじゃないか。
 それもまた夢があるってなもんだ。
 まあいざとなりゃ~、遠くから来てもらった人に、もう1日滞在を伸ばしてもらえばいいだけの話じゃないか。

 あ、いや……
 こんな結論じゃ許されないな。
 とりあえず、みんなはどうでしょう??
 実際にそんなことのあった人とか、どうだったよ??

 ……結局、訊いて終わりか??

  • 2006年9月 8日 00:23
  • 松田拓弥
  • Essay

 やっぱ家族の絆ってやつに弱いらしい。
 どうにもこうにも、こればっかりはダメらしい。
 いつまで経っても免疫ができない。
 涙腺がゆるみまくってる。
 そのくせ、人の死だとか別れには、一切の涙が出てこない。こぼれもしない。浮かびもしない。
 そのへんは、免疫の塊のようになってるみたいだ。

 離れることには強いんだけど、結ばれることには弱いらしい。
 取り戻すとか、手にするために一生懸命がんばるだとか。
 どっちが難しいとか、奇跡とかっていうんじゃなくて、結ばれるのも離れていくのも難しい。
 損得だとか難しさとかで物事判断しちゃったら、どう考えても大切なものが見えなくなる。
 難しいほうに重きを置いてしまったら、人の出逢いなんて葉っぱ1枚より軽そうなもんだ。

 たとえば、その葉っぱ1枚が落ちたことで、そこにいた虫はその夜をあったかく迎えられるかもしれない。

 う~ん、このたとえは間違ってる。
 かなり見当違いな感じがする。
 でもそんなようなニュアンスだろうな。

 家族の絆に限らずとも、やっぱこの“絆”ってのが相手だと、泣けてくる。
 わけもわからず、うなずいている。
 軽々しく“共感”なんて言葉は口にしちゃいけないのかもしれない。
 僕がそれを経験してるわけじゃないから、それがわかるわけじゃないのに、なんかわかったような気がして……
 ああ、ダメだ。
 人は人を思い、人が思いを馳せるのは、命だ。

  • 2006年9月 4日 05:00
  • 松田拓弥
  • Essay

原石から輝きへ、そして無邪気から純粋へ。

 言葉の重みは変わらない。
 誰に言われた言葉なのか??
 そのとき、その前、自分はどんな気持ちだったか??
 そこらへんにかかってくる。
 それが言葉の重みになってみたりするんじゃないか……

 突然、胸にグッとくる言葉が降りかかる。
 それは全然、なんでもない言葉だったりする。
 愛を叫ぶわけじゃなく、夢や希望を掲げて見せてくれるわけでもない。
 でもなんでだ??
 不意だったから??
 わからない。
 だからそのへんにかかってくるんだと思ってみたり……

 言葉よりモノってこともある。
「お腹はすくかもしれないけど、あきらめないでがんばって生きてね」
 そんなあしたの見えたような言葉より、たぶん金だ。米だ。たとえ賞味期限が切れていようが、コンビニのおにぎりだろう。
 あすへとつながる励ましよりも、あしたも実際にそこにいれること。
 普通に生活してれば、そんな特別っぽく見えてしまう状況なんてあり得ない。
 あしたは見えてる。
 だから毎日を“繰り返し”だとか“退屈”だとか感じてしまう。
 でもそれはきっと、そういう“普通の暮らし”ってのができてるからなんだろう。
 誰もが“あしたは誰にもわからない”とかって希望を見つけようとしながらも、どこかで必ずあしたが見えてしまっている。
 物質的にもそれなりに満ち足りている。
 不幸ではない。
 だから目には見えない“言葉”っていうものにさえ重みを欲しがってしまうんじゃないか??
 考えるとき、それは言葉なしにはムリだと思う。
 ただぼんやりと考えてるってのは、きっとなんとなく感じたり思ったりしてるとき。
 考えるのと感じるのでは違うとか思ってみたり……

 言い方とか呼び方なんて、どうでもいいさ。
 愛も恋も、きっと一緒だ。
 好きって気持ちに変わりはない。
 頭のなかにあることと、こうやって文章にして書いてみるのとでは、どうもどっかで食い違いがあったりする。
 言葉にして、自分の言葉で表現するとなると、途端に自分自身の気持ちでさえも、それが難しく見えてしまう。自分のことじゃないような、他人事みたいな見え方がする。
 そんなときがある。
 たとえば、「愛してる」と言われたとき。
 <嬉しい>と感じながら、<ホントにこのまま鵜呑みに信じちゃってもいいんだろうか??>なんて疑ってしまったり。
 「愛してる」と言ったとき。
 <愛してる>とそのまま心のなかで叫びながらも、どこかじゃ<白々しい>とそんな自分を小バカにするような視線があったり。
 でもあえて言うなら、考えるのは“頭”であって、感じたり思ったりするのは“心”であれと願うばかりで……
 そして、こうして自分の言葉を表現するのは、“心のままに”と信じてみる。

 “純粋”って何だろう??
 あっ、なんか結論が先に来た!!
 “自分を何より信じてあげること”らしい。
 だからって頑固とは違う。
 自分の間違いに気づいて、また自分が正しいと思ったほうにいくのだって、自分の信じた方向ってことだから。
 でもやっぱり、それはかなり難しいわけで……
 でもきっと、それは誰もがやってるわけで……
 だから今の自分ってやつがあるわけで……
 弱さだとか悲しみだとか、そういうものにやられてるとき、やっぱり人の優しさや、ただその存在にすがってしまいたくなるもので……
 そういうときにくれた優しい言葉は、絶大なる威力があって、ついつい流されてしまったりする。
 でもそれは悪いことじゃないと思うわけだ。
 もしそれが自分にとって間違っていたとしても、自分が求めていた答えじゃなかったとしても、それはいくらでもあとから気づける。
 そして、いつでも軌道修正できるもんだ。
 遅すぎたなんてことはない。
 “でも、どうにもならないこともあるんだよ”って、優しく諭してくれる人もいる。
 でも、そこから今の自分にできる最善と思えたことをやってみたらいいじゃないか。
 弱さや悲しさ、切ないときは、流されてしまっていいじゃない。
 強いだけが求める答えじゃないんだから。
 泣かない強さに負けるより、泣ける弱さを知ればいい。
 なにが悪くて、なにがイイか。
 なにを信じたらいいのかも、わからなくなる。
 自分の気持ちの整理ができない。その証明もできないでいる。
 でもそういうのって、きっとあとからわかることだから。

 なんだろう……
 よくわかんないけど、すごくイイ。

 こうやって言葉にしてみると、書きながら考えてたり、感じたりしてる。
 で、その重みを一番感じるのは、結局自分なんだろうな。
 きっと。

 今気づいたことは、こうやっていろんなことを考えたり感じたり、いろんな経験を重ねながら、どんどん人って“純粋”っていうところに近づいていくんじゃないかな。
 なんか変かもしれないけれど、それが“プライド”っていうやつなのかも。
 子供はきっとその“原石”で、大人になってくのとともに、その人っていうのが輝きを増していくんじゃないのかな。

  • 2006年9月 2日 00:34
  • 松田拓弥
  • Essay

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