"Essay" にまつわる文章のリスト

復讐

 終わりなきもの。

 金。金。金……

 それによって崩壊となっていった家族、親に対するそれでもある。
 とりつかれたように働いた親。
 僕らのためと言っていた。
 でも結局は、自分のために見えた。
 夜ごと店を渡り歩き、女の上をハシゴして、その女と落ちていく。果てしなく。
 子供の僕には迷惑だった。
 そして今、這い上がることすらできない見えない底でもがいている。

 おれは金で育った。
 金に育てられた。
 聖徳太子のように親の言うことを器用に聞きわけ、福沢諭吉のように勉学をすすめた。
 稲造さんは誰か知らない。一葉さんも最近知った。
 夏目漱石のような『坊ちゃん』に生まれても、野口英世のような才覚はない。
 コインのように財布になければ困り、ありすぎれば邪険にされた。
 その金を稼いでいたのは親かもしれない。
 でもその上に放り出された。
 まるで金の絨毯だ。
 だからきっと、人一倍金への執着心は強いと思う。
 愛はない。愛なんて必要ないとさえ思えてくる。ぬくもりもない。差し伸べられる両手もない。
 人の肌よりすべすべで、妙にあったかい。
 でも体の芯は冷たいままだ。
 生えかけの産毛を削ぎ落とすように表面だけを摩擦する。
 自分が女と暮らすから余った分を置いていくだけ。
 そう、そのころは金があった。
 ただそれだけの話だ。

 金のありがたみがわからない。
 “時は金なり”というほど、そこまで重要なものなのか自信もない。
 『ダヴィンチ・コード』のように、どこかの天才によって精巧に刷り込まれた罠かもしれない。
 本当はそこに目を向けさせるためではなく、それ以外のもっと重要な何かがあるのかもしれない。それを狙っているのかもしれない。
 『モナリザ』は、ダヴィンチ本人かもしれないし、母親かもしれないし、マグダラのマリアなのかもしれない。もしかしたら、そのどれもなのかもしれない。 どれでもないのかもしれない。
 それがダヴィンチの教会やキリスト教、あるいは真実への復讐であるかのように。
 現代になってやっとそれが解明され、注目されるようになって、初めてそのメッセージ性に気づいたというだけであって、本当はその当時の出来事を如実に示しているのかもしれない。
 500年前には飛行機なんて考えられないなんて、単なる現代人のおごりじゃないか??
 彼がもし現代に生まれていたら、その著作権による財産は天文学的な数字になるというのも、それ自体が天文学的な可能性だろう。
 彼はあの時代に生まれたからこそ、“先見の明がある”とか“天才”と呼ばれただけなのかもしれない。
 どちらにしろ可能性は無限だ。
 現代が求める才能が、当時の彼っていうだけなのかもしれない。
 この不況には先見の明が必要なのかもしれない。過去にさかのぼってそういうものを貪るのも悪くはない。
 時代が求める才能は、時代に認められなければ才能とは呼ばれないのだ。
 復讐も、今になってみないとわからなかったのだ。
 終わらないから今なお続く。
 そこに金がある限り。

 おれの復讐に『ダヴィンチ・コード』は関係ない。
 ただ単に、こないだそれにまつわるテレビ番組がやっていただけ。
 その影響。本も読んだし。
 あれはおもしろかった。話というより、ウンチクが……
 そう、これは、おれの復讐でもある。
 いつまで続くかわからないけど……もう終わってるのかもしれない。ずっと終わらないのかもしれない。
 金に対して、家族に対して、そして、絆に対して。
 裏切りや強がり、僕の弱さ。

  • 2006年9月 1日 00:38
  • 松田拓弥
  • Essay

Elisa

「パチンコで負けちゃったよ」
「いくら?」
「5万」
「もうやめなって」

 恋をした。
「なんか負けてばっかだし、もうやめようかなぁ~と思ってんだよね」
「なにが?」
「パチンコさ。旅行とか行きたいとこあるし、音楽もやりたいしさ。まあ、やめないにしても、減らそうかなぁ~と思って」
「偉い!!」

 恋が実った。
「そういえば、パチンコってまだ行ってるの?」
「いや、それならおまえと一緒にどっか行ったり、うまいもん食いたいよねぇ~」
「じゃあ、もう全然行ってないの?」
「ああ、なんか勝てそうなときとか、付き合いで何回か行くぐらいかな」
「あれってそんなに勝てるもんなの?」
「う~ん……まあ、慣れてくれば負けなくはなるかな」
「ふ~ん」
「ちょっとこないだ勝ったんだけどさ、それで今度どっか行かない?」
「ホント? やったね。大好き!!」

 しばらく経った。
「パチンコって、そんなにおもしろいの? 友達もなんか最近けっこうハマッたって言ってたんだけど」
「勝ってるときはね。負けがこんでるときは意味もなくイライラしてくるけどね。それよりさ……」
「へぇ~」
「もしかして、興味持っちゃった?」
「う~ん……なんかたまにそのハマッてる友達とかからも誘われたりするから、ちょっとどういうものなのかなぁ~と思ってさ。でもそこまで勝てるものでもないんでしょ、パチンコって?」
「そりゃね。まあ、厳密に言うと、おれが行ってるのはスロットなんだけど、パチンコよりは勝てる確率は高いかな?」
「じゃあ今度、一緒に連れてってくれる?」
「マジで?」
「うん、ちょっとどんなものか見てみるだけだからさぁ~」
「じゃあ、1回だけね? OK?」
「ありがと。なんかごめんね、音楽やってるときにこんな話しちゃって」
「いや、いいって。同じ趣味できたじゃん? って、ハマっちゃ困るんだけどね」
「だいじょぶだって、ハマらないから。だって、わたしがやめさせたんだよ? なぁ~んてね」

 あるときケンカした。
「……どうせまた負けたんでしょ?」
「しょうがないじゃん。いっつも勝てるわけじゃないんだし」
「一緒に行ってるならまだしも、最近また一人で行くようになってるし……わたしと一緒に美味しいもの食べに行ったほうがいいって、あれ嘘?」
「なんでそうなんだよ。自分だって一緒に行くようになってんじゃん」
「それは、やっぱり同じ趣味持ってたほうがもっと一緒にいれるかなぁ~と思ったし、いっぱい話せるじゃない」
「じゃあなに? スロット始めたのって、おれのためだとか言いたいわけ?」
「いや……全部が全部そうじゃないけど……」
「頼んでないじゃん。それにおれ、もうホントにやめようと思ってたんだよ?」
「それは……ごめん。でも……」
「もういいって。じゃあ、やめるから」
「なんでそうなるの?」
「こういう小さいことでケンカするのヤなんだよね」
「なにそれ……もういいよ」


 恋をした。
 恋が実った。
 しばらく経って、あるときケンカした。
 女はしかるべきところで怒れなくなり、自分の言いたいことが言えなくなってく。
 男はそれすらわからなくなり、どんどんズレてく。

  • 2006年8月29日 22:25
  • 松田拓弥
  • Essay

単なる松田拓弥

 今の僕は、自分の夢に食われてる。
 未来の自分が、今の自分を食っている。


「作家になります」
 きっぱりとした口調でそう口にするたびに、同じことを自分に言い聞かせているんじゃないかという気になる。そうやって、自分で自分勝手に築きあげた中身にしがみついて、そこが空洞になってしまうのを食い止めようと必死になっているような、そんな感覚に揺さぶられる。そして、揺れてしまう。
<僕は、本当に作家になりたいんだろうか?>


 定石どおりに、ちょっと照れたように自分の夢を口にすることで、女の人にモテたいという下心なのかもしれない。雑誌で読んだし、少なからず自分の経験からもそれはわかってる。
 モテたいというのを全部否定すれば、それは嘘になるけど、それも少なからずあるとは思う。そういう一面。
 そこでいつも言われるのが、作家とかなら「就職して仕事しながらでもできるじゃない」だ。
 ごもっともだ。できないことでは、決してない。
 でも、そんなときの僕の用意している逃げ道は、これだ。
 “自分の時間”
 自分でもわかってる。ただ、怖い。
 就職して、それなりの給料とボーナスをもらって、それなりに可もなく不可もない安定した生活ができるようになったら、きっと僕は、そこに安住してしまう。悲しいくらいに、自分でもたやすく想像できてしまう。ホストでもやって、もし間違って月に100万ぐらいの収入が手元にくるようであれば、そんなことは想像するまでもない。
 そこまで意思の強いほうじゃない。それは自分が一番よくわかってる。言い換えれば、僕の意思なんてものは、その程度のものなのかもしれない。
 でもただいつまでも諦めきれずに、趣味と銘打ってやりつづけはすると思う。
 詩も、誰かに共感してもらいたいから書いてるんじゃない。認めてもらいたいからでもない。でも、その全部を否定すれば嘘になる。
 何でもいい。どんな形であれ、認められたい。「すごいね」って言われたい。お金もほしい。性能重視の日本車よりも、燃費は悪くても外車に乗ってみたい。メイドさんのいる家で大きなお風呂に入ってもみたい。たとえマズくても、キャビアとフォアグラを一緒に頬張ってみたいけど、そんな自分を励ましているんだろうと思う。

 人の弱さは自分のそれでもあったり、強さや涙、夢、恋愛にしたってそうだ。挫折してしまいそうなとき、つらいとき、失敗したとき、負けそうなとき、ただなんとなくでも、自分の思いを綴ることで、自分の言葉に励まされることがある。そしてそれが、誰かの励みになってくれたら、それが僕の励みにもなる。
 設定とかそういうのは想像でも、全部が全部それだけで書こうと思えば限界があると思う。思春期の少年のような想像力なら、今だってゴム風船並みにふくらまそうと思ったら思っただけ、いくらでもふくらますことができる。
 でも、そういう思いが少なからずでも自分のなかになければ、詩は書けない。それは僕だけかもしれないけど、その僕がそうなんだから仕方ない。
 もし作家がダメでも、今の生活に変わりはなくて、それなりの生活ができるようなら、そこに甘んじてしまうだろう。居心地のよさを探しまくって見つけたら、そんな自分に対する疑問符だってなんとか押さえつけてしまえるだろうと思えてくる。
 きっとそれは、解放するより簡単なことだ。

 ただ、平凡に二十歳をすぎたらサラリーマンっていうのがイヤだったっていうのもある。
 一年を振り返るたびに、その一年分の年と、自分に対する疑問符しか残らないなんていう人生は、想像するだけでうんざりした。定年するまで朝決まった時間に起きて、仕事して、ほとんど決まった時間に帰ってきて。残業のしすぎで恋人に軽口をたたかれたり、体のどこかを壊したりして。ちょっと突つかれただけでこぼしてしまうような愚痴にまみれた生活も、不満で散らかった部屋に帰るのも。
 本当にやりたいことがサラリーマンっていう枠でくくられることなら、それは仕方ないし、望むところだと思う。
「ただ思ってるだけじゃ、その思いは伝わらないんだよ?」
 いとこのおばさんにそう言われたとき、僕は思いっきり殴られたような衝撃を受けた。
 やりたいことは別にある。
 伝えたいことがたくさんある。伝えたい。そしてそれを伝えなきゃならないと自分勝手に思いこんでる。
 歌もやります。でもそれは、ただ僕が好きだから。歌ってるときが一番気分がいい。それ以外の言葉で表現できないくらいの幸せを感じる。
 でも結局は、これも同じだ。自分の思いを伝えたい。
 もし今、ほかの道に進んでいけたとしても、疑問ばかりを残すだろう。これだけは間違いない。
 自分の希望どおりにいかないのが人生なら、自分の希望を貫ける道を、自分で切り開いていけばいい。かなり安易だけど、それもできないことじゃない。就職して仕事しながら作家としてがんばっていくのと同じぐらい、できないことじゃない。
 きっと宝クジを買うようなもので、やってみなきゃわからない。もし今回はハズレても、また次がある。またハズレても、その次はある。次があれば、まだできる。ハズレるたびに落胆はするけど、そこで終わらせてしまったら次もなくなる。次はないと思って必死になってがんばれるのは、今がその次だと思ってやれるからだ。次がないっていうことは、そこで希望も潰えてしまうと同じだから。
 希望は希望のままで、希望のなかで死ねたなら、それはそれで本望かもしれない。
 でも今はそうは思えない。志半ばにして倒れたとしても、倒れたままで生きてやる。死ぬまで生きる。それが生きる理由であり、死ぬ理由であればいい。今はそう思う。
 今の僕が自分のなかで誇れるのは、唯一これぐらいだろう。これを失くしたら、もう本当に単なる松田拓弥っていう肩書きぐらいしか残らない。ただの僕しか残っていないだろうと思う。
 でも本当は、それだけあれば充分なんだろう。そうも思う。
 ほかになにがいる?
 僕が僕であるために、僕以外のなにがほかに必要なんだ?


 でも今、その単なる松田拓弥は「作家になります」と口にする。本当かどうかは自分でも揺れてしまうときもあるけれど、その思いを伝えてる。ただそれだけ。ただそれなんだ。
 今、単なる松田拓弥が、「作家になる」と言っています。

  • 2006年8月29日 02:01
  • 松田拓弥
  • Essay

迷惑な話

「人様に迷惑かけずに生きていく」

 まあ言うなれば、生きてるだけで迷惑だ。
 存在そのものが迷惑な話。
 そんな自分だけの物語を垂れ流しながら、我が物顔で歩きつづける。自分が主役の物語だ。
 食べたらクソをたれ、ムシャクシャすれば人を殺し、思いどおりに運ばなければ戦争を始める。
 人の身の上話ほど退屈な話はない。
 僕はその人じゃないんだから。
 その人も僕じゃない。
 僕の過去は、その人が思いだすようには参照できない。つらいと言っても、その人にはとうていわかることじゃない。
 それは僕も同じことで、その人がどんなに厳しい過去を背負ってきても、そしてそれをどんなに語り尽くしたとしても、僕が背負えるものでもない。

 だけど、つらいことや苦しいこと、悲しいことがあったとき、自分にとって一番迷惑なことで自分が生きてるんだって思い知る。泣いたときに自分の涙を見てしまう。血が出たら、自分の血を眺めてしまう。
 自分のものを他人の目のように眺めることができるってことは、そこには必ず僕がいて、そこで生きてるってことなんだ。
 どこかの誰かがたれたクソも、どこかで誰かの生活を支えてるわけで……
 人に迷惑かけることが生きてくことなら、僕には迷惑なんてものはない。迷惑だなんて思わない。
 退屈な話にうなずきながら、迷惑な時間を過ごしながら、そのとき僕も迷惑なことをしてるんだ。
 わかりもしないことなのに、わかったように首を振る。ああでもない、こうでもないと意見を言う。

 どんな過去を乗り越えてきたとしても、めぐり逢えたのは今なんだ。
 それまでに目を背けてしまったら、これからを見るなんてできっこない。
 どんなに長い年表で、戦争や事件ばかりが並んでいても、そのすべては人間たちの歴史なんだ。
 文化や景色のことじゃない。
 愛しい人が生きていた、そんな証拠が歴史なんだ。
 ましてや書き換えられる歴史なんて、しょせんは本ってことだけで、まるで意味のないものなんだ。
 聖書だって古本だ。
 いくらでも本屋さんで売り買いできる。
 “書き記す”ってことに、どれだけの価値があるだろう?
 言葉をたくさん知ってたり、文字の読み書きができるっていうことで、どれだけの人に迷惑をかけてきただろう?
 どんな自分勝手を言ったとしても、迷惑をかけられる人にも限りがある。
 どんなわがままだって、許してくれる人がいる限り、それはわがままだなんて言えないんだ。

 生きててほしい。
 生きていきたい。
 生きていたい。
 そんな生が愛しいから。
 誰かのためじゃなくていい。
 ただ生きていてほしい。
 そんな単純なことを愛と呼んでいきたい。

 生きること。
 迷惑かけて生きてくこと。
 まあ言うなれば、死なれるほうが迷惑だ。

  • 2006年8月28日 00:58
  • 松田拓弥
  • Essay

正しい、人の愛し方

 自販機で買ったジュースは、きっと出てくるのもジュースだろうと思う。
 ただ、お金を入れて、飲みたいジュースのボタンを押せばいい。
 でも、こればっかりはそうとも言えなそうだ。


 まず、愛するって何だろうって考えてみたとき、だいたい途中で挫折する。答えが見つからない。
 「答えなんて、ない?」なんていう使い古しで、なんとも魅惑的でロマンチックな結論を答えにしてみる。
 で、眠りのなかで見た夢の人の微笑みを、愛だなんて呼んでみる。

 そこでちょっと違う角度から攻めてみる。
 なぜ愛するのか?
 そんなことは特にどうってことはない。愛したいからだ。理由なんてないと思う。
 一緒にいたいから?
 ただたまたま、そのときそこにいたから?
 「愛してる」って言われたから?
 そんなんだったら、もうコロンブスの卵みたいな疑問も沸いてくる。
 愛してるから一緒にいたいと思うんじゃないか?
 愛してるから、そのときそこにいたんじゃないか?
 愛してるから、「愛してる」って言ってくれたんじゃないか? 愛してるから、自分がその言葉を待ってただけだったんじゃないか?
 で、そういうときっていうのは、なぜか自分が弱い立場みたいな考え方になってしまう。「~してくれた」とかいう言葉が自然と出てきてしまう。弱みにもなるし、逆にそれが強さにもなる。きっとそれが自分のなかで大きな支えになってることだろうから。
 それで今回は、愛ってのは、それ自体を理由にすることもできるし、結論にも、また疑問にもなるのかなぁ~なんて、ちょっと気分のいいところで眠りに入る。

『真実の愛とは何かを問いかけてくる』

 そんな映画を見た。
 真実の愛?
 でもまさにその通りだった。問いかけられた。それが何かというのを、また考えさせられた。
 でもそれだけだった。
 きっと「それも1つの愛」と、そんな答えが出てきた。だいたいが自己犠牲っていうところで落ち着く。
 愛する人を、自分の命で支える、そんなところだ。
 その帰り道、自分もほかに飲みたいジュースがあったけど、財布のなかには120円……その日はちょうど「レディース・デイ」だった。でも、愛する人が飲みたがっているジュースを買った。ただ、ちょっともらって自分も飲んだ。それもまた幸せ。
 程度こそ違え、どちらもそう呼べなくもない。まあ、後者は涙は出ないにしても、“ハートウォーミング”とぐらいは呼んでもらえるだろう。
 たしかに、人のために自分の命を捨てられるなんて人は、そうそういないだろうと思う。たしかにそれを目の当たりにしたら、そりゃ「これこそまさに真実の愛だぁ~!!」なんて泣きながら叫ぶかもしれない。
 でもあくまでそんな映画は、何千円かでいくらでも見れる。言うなれば、真実も愛も創りだせるというわけだ。見飽きれば、どっかで売って、また金に換えてしまうだろう。しかも、買ったときより安くなる。
 それがジュースなら、同じ状況になったときには、もしかしたらその人も同じことをしてくれるかもしれない。またもや間接キスだ。しかも、前回とはわけが違う。なんと、かなり飛躍させて解釈すれば、相手からお願いされたなんて気がしないでもない。
 そんな日は、なんかいい夢が見れそうなもんだ。


 恋人に殺されそうになる夢の途中で目が醒めた。
 運動もしてないのに心臓がバクバクして、息を切らせながら汗が流れてくるのを感じて、また眠る気にはどうしてもなれない。
 時計を見ると、まだ早すぎる朝。外も暗い。部屋も暗い。明かりをつける。
 カリッと焼いたヴェーコンはない。これは内輪話だ。ごみん。
 なんだかふとさみしくなる。明かりをつけたことで、部屋だけじゃなく、ここにある孤独をも照らしだしているような気がした。まだ胸の早鐘がおさまらないのは、きっと夢のせいだけじゃないだろう。
 枕のすぐそばに置いてある携帯電話を手にとってみる。恋人からの着信には、専用のメロディを設定してある。
 また視線が時計に向く。
 夕陽とか夜景とかは、眺めていられるあいだはゆっくりと少しずつしか変化しないのに、それが恋人といるときには、どんどん加速していくように時間が消える。でも今は、1秒は1秒のままで過ぎているようだった。それは果てしなく長いものだった。
 恋人の着信音が鳴りだしたのは、それを自分で確認するための操作をしたからだった。
 急にバカらしく思えた。
 たかが夢じゃない。
 でも恋人のための着信音も止められずにいた。不安は消えなかった。
 声が聞きたい衝動をなんとか我慢して、メールだけにとどめておいた。自分のために起きてくれたらどんなに嬉しいことかと思いつつも、こんなことで起こすのはかわいそうだとも心配してしまう。
 っていうか、電話ぐらいじゃ起きないだろう。よく寝る人だ。
 それに、明日は恋人とのデートが待っている。寝る前に電話で約束していた。
“光って、ときには人を不安にもさせるんだね”
 明日会ったら、このメールの意味をちょっとカッコよく話してやろう。
 結局眠らずに朝を迎えた。でも気分は上々だった。なにがあろうと、ちゃんと、しっかりこの気持ちは伝えたかった。

「完璧な人間なんていない」
 これは浮気とかそのへんのことに対する決まり文句だな。
 でも、不完全な人間なんてのもいないと思う。
 で、そんな人間が相手の愛なんぞは、それこそ、それを求めるほうがちょっと都合が悪い。自分にとってか、相手にとってかは別にしても、いくらでも逃げ道はある。
 完璧じゃないからこそ、完璧ってやつをお互いで築きあげていくもんじゃないだろうか。
 むしろ、完璧じゃないからこそ、愛せるのかもしれない。
 でも、ことあるごとに人は言う。
「……う~ん、完璧」


 こうやって愛について考えだすと、やっぱり、どうしても客観的な見方ができなくなってしまう。
 だから答えが出せないのか?
 過去を参照したり、はたまた未来に不安を感じてしまったり……そして今はどうなんだとか考えてみたり。
 いつの間にか「愛」っていうところから離れていってしまってる。
 頭から心というか、理由はどうあれ、どんどん話がふくらんでいく。参照できる情報が多すぎるのか、ごくありふれすぎているのか。
 目で見れないからなのか、それに当然のように囲まれていると、それについて考えるっていうことを自然としなくなるのかもしれない。
 特に必要がないからだ。
 たぶん、愛について考えるより、明日の献立とか、今月のケータイの支払い遅れそうだとかのほうが、現実的で、なおかつおもしろくて、そのときどきでは必要なことなんじゃないかな。
 子供が熱をだして大変とか、夫が会議で使う書類を忘れていったとか、友達が実はピアノがうまかったとか、恋人の友達に芸能人がいるとか……道端ですれ違ったおじいちゃんが、突然パンクロックなんぞ歌いだした日にゃ~、もう楽しすぎてノリノリさ。
 きっと、どうしても客観的に見れないものには、自分じゃ答えが出せないもんなんじゃないかと思う。自分で見つけた答えには、どうしても人の意見で確認したくなるからだ。
 どうやら愛は主観でしかとらえられないようだ。

 この今の世の中、科学者さんが「愛とはこれだ!!」とでも学会かなんかで発表してくれたら、それだと答えが出てしまいそうなものだけど、もしそんなことになれば、だれもが「そうじゃない」って言いだすだろう。
 だから「愛」ってのは、永遠のテーマって言われるんじゃないだろうか。誰もが客観的に見れないから。誰もがそこに囲まれてるから。
 愛すべき人と、愛しい人っていうのが、必ずしも一致しないっていうのと同じように、愛の形もまた同じじゃない。
 愛する人が1人じゃなくてもいいように、愛っていうのも1つじゃなくていい。
 子供を愛することも、友達を愛することも、恋人を愛すことも、全部が違うようで、同じであって、なかなかどうして違うもの。
 愛すべき人も愛してると言える。
 愛しい人も愛してる。
 愛はいくつあってもいい。
 ただ、不倫や浮気を擁護するってわけじゃない。
 とはいえ、恋人の友達がブラピなんて言われたら、なにがあろうと会いたくなる。「そんなに会いたいんなら別れる」とか言われても、即答で否定はできないだろう。これは間違いない。そして、百万が一の過ちも期待してしまう。もしチャン・ツィイーなら、過ち期待度、9割だ。
 失って初めて気づくのが愛ならば、そのとき愛についてゆっくりじっくり考えたらいい。
 それでもやっぱり答えらしい答えが出ないから、人はまた愛することを繰り返す。愛することが答えであり、その理由であり、疑問であり、愛。
 愛って、なにをどうしても主観的にしか見られないものだと思う。
 もし愛を客観的にとらえることができたとしても、主観でしか見ることができなくなったとしても、今でもそこに愛はあるから。
 だから科学じゃ説明がつかないんだろう。科学の盲点は“主観”じゃないかな。


 さてさて、小説ってやつには、いろんなジャンルがありますな。サスペンスにミステリーに、SF、恋愛、歴史物、ファンタジー。ノンフィクションから半分フィクションまで。
 しかしまあ、流行というのも否めないところ。ホラーが流行ったり、アクションで熱くなったり、SFのVFXに度肝抜かれたり……でも、そんななか、いつの世もほぼ常に恋愛小説というのは根強い人気でありつづけるようで。
 記録的大ヒットはないにしろ、とりあえずはラブロマンスな感じの作品が賞をなめることも多いのは確か。でも、記録的大ヒットや語り継がれるような知名度を残すのも壮大なラブロマンス作品っていうのも認めざるを得ない。
 まあ、個人的にはスリルとサスペンスのなかでドキドキしながらページをめくる、それが楽しみなんだけども。
 ちょっと待て……話の展開が強引すぎやしないか??
 まあいいや。
 というのも、恋愛っていうのが、なんかこう……そういうジャンルの要素をすべて兼ね備えているようにも思えたわけです。些細ながらも、いろんな要素があるのが恋愛ではないかと、ふと生まれて初めて号泣した映画を見終わったときに感じたわけ。
 サスペンスのようにドキドキしながら、謎を解くように悶々とし、たまには演出なんかも施してみたり。規模は違えど、ある日二人の過去を話しながら笑い合ったり怒ったりと、時間は短くても二人の歴史に名前を刻んでいくわけで。そんな折、過去の恋愛を振り返ってみたりもする。2度目の大きなケンカなら、それは小さな世界のWW2でもある。それがまた夢のような日々に変わったと思いきや、現実的な傷みや悩みを抱えながら、時には嘘が必要になるときもあるでしょう。でもそれは作り話なんかじゃない。
 いや、さすがにこれはこじつけかな。
 映画や小説だったら、この先が見たいとか、少しずつでも考えながら進めていける。あわや巻戻しだってできてしまう。「今なんて言った?」とか、現実ではたった1度の言葉さえ、何度でも聞けてしまう。
 なにが正しいとか、なにが間違いだったとかも、きっとあとから考えてみて、やっとわかることなんじゃないかな。今こうして幸せだと感じられるから、あのときの選択は正しかったとか。そして今が幸せだからこそ、そうやって正解だったと言えるんだろうとか。どうしてあのとき、あの道に行かなかったんだろう、そしたら……とか。
 後悔や答えが始まるより先にわかるものじゃないように、物事の正否っていうのも、あとから気づくことなんじゃないかと思う。
 とはいえ、頭では間違ってるってわかってても、そっちのほうへ吸い込まれてしまうっていうこともある。
 とまあ、こんなふうにいくら考えてみても、愛については、どうにもこうにも、「あとからわかったこと」になってしまう。
 今ある愛については、あまり深く考えない。
 愛しい人を愛するだけ。ただただその人を愛してるだけ。
 そんなときは、愛して愛して愛して、その人を愛してる。
 考えるっていうことより、ただただ気持ちが先行する。
 なんでもないのに涙が出てきてしまうのは、現実に今ここに自分がいるからで、そんな自分が愛しいからだと、僕は思う。


 そして、今わかったことがある。これを最後に締めくくろう。
 あくまで、きょうの答えね。
 僕が言える「正しい人の愛し方」の1つは、それはないということ。そして、どれもがそうということ。
 「こうあるべき」っていうのは、きっと誰もの心のなかにあるとは思う。
 だから、きっと自分の心が正しいと思った愛し方で愛せれば、それでいいし、それがいいんじゃないかな。
 で、愛し方も、その愛も、1つじゃなくていいし、たくさんの愛があったほうがいいと思う。


 ただ、こうやっていろんなところで見るように【正しい~】ってしちゃうこと自体が、正しくないことなんだろうなぁ~ともあとからわかること。


 ……あ、そうそう。
 もう1つ。
 あとは、愛されてる自分も愛してあげるということかな。

 以上!!

  • 2006年8月26日 00:34
  • 松田拓弥
  • Essay

伝えたいこと、伝えること

 伝えることが大切なんだ。

 わかってほしいから、それを伝えることが大切なんだ。

 伝えたい。

 どうしても伝えたいこと。

 自分の存在はすごく、すごく小さいかもしれない。

 たとえ自分の声はすごく小さな存在かもしれないけど、

 どうしても伝えたいことがある。

 それを伝えたい。

 難しい言葉をいくつも使って簡単に短い時間で説明するより、

 だれにでもわかる言葉で、じっくりと時間をかけてゆっくりとわかってくれればそれでいい。

 そうだ。

 伝えたい人に伝えたい。

 わかる人にだけ伝わればいい。

 そんなんじゃなかった。

 知らない言葉は使えない。

 初めて知った言葉はもっとたくさん使いたくなるように、

 初めて知った気持ちはもっとたくさんわかち合いたい。

 もしも字が読めないなら、普段おしゃべりしてる言葉でじっくりゆっくり語り合おう。

 もしも声が届かないなら、何通でもいくらでも手紙を書こう。

 もしも何もかもを投げだしたいなら、こちらを向くまで待ってみよう。

 もしもキミが子供なら…

 背伸びなんてしなくていい、そのままで聞いてほしい。

 僕だって大人じゃない。

 そうだ、みんなに伝えたい。

 伝えることが大切なんだ。

 そんなふうに感じられた。

 それが僕には大切なんだ。

  • 2006年8月25日 01:28
  • 松田拓弥
  • Essay

コトバ

 最近、「カタカナ」ってやつが流行ってるらしい。

 聞いたことない言葉でも、漢字で書かれてると、その字を知ってれば、なんとなくその意味も理解できたような気がする。そして、あとから本当の意味を知っても、それに近いことが多い。
 でもカタカナだと、どうもスムーズに入ってこない。

 たしかにインパクトはある。
 でも、理解できない。
 でも、だからこそインパクトがあるのかもしれない。

「コトバ」

 だから?
 なにも伝わらない。
 もしそんな題名のモノがあれば、きっと“あれ? なんだコレ? ちょっと気になるかも? 見てみっか…なぁ~”ってなるかもしれないけど、それを開いて読んだら、きっと呼んで終わりになる。

<へぇ~、“コトバ”かぁ~…“コイビト”でもいいじゃん>

 カタカナ表記の言葉や文章を読んだら、それをそのまま受け取るだけで、それについて考えたり悩んだりもせず、もしかしたら返品するかもしれない。

 でもそれが今【ハヤリ】と思えるのは俺だけか?

 もしかしたら今使われてる言葉のそのすべてには、特に伝えたい意味ってのがないのかもしれない。
 特に伝えたいこともないし受け取ることもないのに笑うヒトのように、そんなふうに言葉が使われてるのかもしれない。
 良く言えば、無条件で、図形的に受け入れられるということだ。

 “カラッポ-コトバ”

 どうだろうか?

 でも、特にそんな意味なんてないのかもしれない。
 必要ないのかもしれない。
 なにか言葉を発すれば、それを受け取るのはその相手だし、自分との食い違いが出てくるのは大小問わず間違いない。
 伝えたいことを、全部丸ごと伝えるのはいつも困難なことだ。
 でもそこがおもしろい。
 そんな試行錯誤が楽しい。
 手探りだ。
 意味を見つけることよりも、その言葉を選んだっていうことのほうが重要なのかもしれない。
 ヒトと、ヒトとの、出逢いのように…

  • 2006年8月25日 00:48
  • 松田拓弥
  • Essay

みんなでカラッポ

 もしかしたら、自分、けっこう病気かもしれない…いや、病的っていったほうがうまいことガチッとくるかもしれない。
 しかしながら、躁鬱とか、鬱とか、風邪とか、精神障害とか、人格問題とか、そういう小難しい名前なんてついてないだろうし、スゴクもないし、ましてや薬もらって治るようなことでもないんだろうし、そんな薬もないんじゃないか?


 いろんなこと考える。
 考えすぎるらしい。
 いっつもなんか考えてるし、考えてないことないと思うし、考えてなければ「考えてない」って頭んなかでそれを意識しちゃうし、なんか意識してないとダメらしい…
 頭が痛い…
 頭の前のほうと、こめかみの斜め50度ぐらい上らへんと、後頭部の首のなんとなくくぼんだ間をまっすぐ上に行って骨ばったところの、そのちょうど1点が痛くなる。
 そんなときがある。
 ありゃヒドイ…
 頭が、頭のなかからブッ飛びそうな勢いある。
 うずくまるときもある、と思う。
 あんまり憶えてないけど、なんとなく頭を両手で持って、1人で「ゲーゲー」言ってブツブツしゃべって、頭をグルグルまわしてみたり、なんかいろんなこと始めてる気配みたいのはある。
 あと背中が痛む。

 落ち着きがない。
 かと言って焦ってるわけじゃないし、なんかしてないと気がすまないって質でもないし、ただ座ってるってことだって、充分に可。
 でも、どっか1点だけを眺めてるってのができないらしい。
 でもそんな瞬間はある。
 でもその次の瞬間には、なんか考えはじめる。
 そんなときは発狂する。
 歌いだし、踊りだし、クルクルまわりだす。
 頭のなかもまわりだす。

 【考え病】
 あえて名前をつけるなら、そんなとこ。
 頭のなかが落ち着かない。
 でも、そんなふうに自分でわけわかんないことしてるときに一番幸せを感じる。

 【幸せ】って何だ?

 恋や愛、「好き」とか「愛してる」って、何だ?


 “人の永遠のテーマ”と、人は言う。
 人が言う。
 わからない。わかりたくもない。
 恋や愛、「好き」とか「愛してる」って、それ以外の言葉ではうまくしっくりくるような表現ができないんじゃないかと思ってみたりするときがある。
 わがままとか自己満足とか、一緒にいたい、そばにいたい、支えたい、泣きたい、つらい、不安、期待、光、希望、やすらぎ、安定、刺激。
 歌詞を書いたり詩を書いたりしててもいろいろあるけど、でもそれって、あくまでそれでしかない。
「何が好き?」
「何も好き」
 こんな感じになってしまう。
 正直、そばにいてほしいとか、一緒にいたいとか、そうやって条件づけして好きになることのほうが少ないんじゃないかと気づいたりする。
 時に。
 いや、まずない。
 条件なんてないだろうし、好きなものは好きだし、愛してるから愛してると言えるんじゃないか?

 だからって、なんもかんもが間違いって言う気もない。
 広める気もない。

 もしかしたら、そういう気持ちって、カラッポになることなんじゃないだろうかとも思う。
 時々。
 それまでたくさんの気持ちを抱えて、心のなかに詰め込んできたものを全部取っ払って、そこをカラッポにすること。
 カラッポ。
 それからまたいろんなことを吸収したり、詰めこんだり、ゆとりができたり、余裕ができたり、いろんなことが入ってこれるように、そのスペースが自分のなかにできること。
 恋や愛、「好き」とか「愛してる」とか。

 それか、また別の場所ができて、ちょっとだけ自分のなかが大きくなれること。成長とも言えるかもしれないけど、なんとなくニュアンス的に違うニオイがする。
 大きくなれる。
 大きくなれる場所ができる。
 そこが大きくなる。
 でもゆとりがあるからって、もっといっぱいのモノが入れたりしまっておくことができるわけでもない。もしかしたら、ちょっとした「ゆとり」ってやつができるってだけなのかもしれない。
 ゆとりができる。
 そこにちょっとだけゆとりができる。

 恋をする。
 恋に餓える。
 愛をむさぼる。

 なにも食えない。

 納豆ばかり食ってる。

 ネバリがない。

 口のなかに頬張っては、飲み込めずに。

 いろんなことを考える。

 とりとめないし、つながらない。

 的確でもないし、的はずれでもない。

 でも、いろんなことを考えて、いろんなことをつなげてみたい。

 自分なりに。


 プー…ハチミツ…花…クリスマス…ヒゲ…カプチーノ…ブラウン…土…色…病気…ベッド…死…青…水…雲…曇り…のち晴れ…開閉式…女…なんつって。


 できれば、笑って過ごしていきたい。

 なにも恐れず、なにも悩まず。

 ただ笑って過ごしていきたい。

 人よりちょっとでも多く笑えたらいいな…

 カラッポな笑い。

 カラッポ。

 ほんのちょっとだけでも…

 笑えるオトナになれたらいいな…

 だからみんなに笑ってほしい。

 できれば、みんなと笑っていたい…

 みんなでカラッポ。

 みんなとカラッポ。

  • 2006年8月22日 18:57
  • 松田拓弥
  • Essay

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