自販機で買ったジュースは、きっと出てくるのもジュースだろうと思う。
ただ、お金を入れて、飲みたいジュースのボタンを押せばいい。
でも、こればっかりはそうとも言えなそうだ。
まず、愛するって何だろうって考えてみたとき、だいたい途中で挫折する。答えが見つからない。
「答えなんて、ない?」なんていう使い古しで、なんとも魅惑的でロマンチックな結論を答えにしてみる。
で、眠りのなかで見た夢の人の微笑みを、愛だなんて呼んでみる。
そこでちょっと違う角度から攻めてみる。
なぜ愛するのか?
そんなことは特にどうってことはない。愛したいからだ。理由なんてないと思う。
一緒にいたいから?
ただたまたま、そのときそこにいたから?
「愛してる」って言われたから?
そんなんだったら、もうコロンブスの卵みたいな疑問も沸いてくる。
愛してるから一緒にいたいと思うんじゃないか?
愛してるから、そのときそこにいたんじゃないか?
愛してるから、「愛してる」って言ってくれたんじゃないか? 愛してるから、自分がその言葉を待ってただけだったんじゃないか?
で、そういうときっていうのは、なぜか自分が弱い立場みたいな考え方になってしまう。「~してくれた」とかいう言葉が自然と出てきてしまう。弱みにもなるし、逆にそれが強さにもなる。きっとそれが自分のなかで大きな支えになってることだろうから。
それで今回は、愛ってのは、それ自体を理由にすることもできるし、結論にも、また疑問にもなるのかなぁ~なんて、ちょっと気分のいいところで眠りに入る。
『真実の愛とは何かを問いかけてくる』
そんな映画を見た。
真実の愛?
でもまさにその通りだった。問いかけられた。それが何かというのを、また考えさせられた。
でもそれだけだった。
きっと「それも1つの愛」と、そんな答えが出てきた。だいたいが自己犠牲っていうところで落ち着く。
愛する人を、自分の命で支える、そんなところだ。
その帰り道、自分もほかに飲みたいジュースがあったけど、財布のなかには120円……その日はちょうど「レディース・デイ」だった。でも、愛する人が飲みたがっているジュースを買った。ただ、ちょっともらって自分も飲んだ。それもまた幸せ。
程度こそ違え、どちらもそう呼べなくもない。まあ、後者は涙は出ないにしても、“ハートウォーミング”とぐらいは呼んでもらえるだろう。
たしかに、人のために自分の命を捨てられるなんて人は、そうそういないだろうと思う。たしかにそれを目の当たりにしたら、そりゃ「これこそまさに真実の愛だぁ~!!」なんて泣きながら叫ぶかもしれない。
でもあくまでそんな映画は、何千円かでいくらでも見れる。言うなれば、真実も愛も創りだせるというわけだ。見飽きれば、どっかで売って、また金に換えてしまうだろう。しかも、買ったときより安くなる。
それがジュースなら、同じ状況になったときには、もしかしたらその人も同じことをしてくれるかもしれない。またもや間接キスだ。しかも、前回とはわけが違う。なんと、かなり飛躍させて解釈すれば、相手からお願いされたなんて気がしないでもない。
そんな日は、なんかいい夢が見れそうなもんだ。
恋人に殺されそうになる夢の途中で目が醒めた。
運動もしてないのに心臓がバクバクして、息を切らせながら汗が流れてくるのを感じて、また眠る気にはどうしてもなれない。
時計を見ると、まだ早すぎる朝。外も暗い。部屋も暗い。明かりをつける。
カリッと焼いたヴェーコンはない。これは内輪話だ。ごみん。
なんだかふとさみしくなる。明かりをつけたことで、部屋だけじゃなく、ここにある孤独をも照らしだしているような気がした。まだ胸の早鐘がおさまらないのは、きっと夢のせいだけじゃないだろう。
枕のすぐそばに置いてある携帯電話を手にとってみる。恋人からの着信には、専用のメロディを設定してある。
また視線が時計に向く。
夕陽とか夜景とかは、眺めていられるあいだはゆっくりと少しずつしか変化しないのに、それが恋人といるときには、どんどん加速していくように時間が消える。でも今は、1秒は1秒のままで過ぎているようだった。それは果てしなく長いものだった。
恋人の着信音が鳴りだしたのは、それを自分で確認するための操作をしたからだった。
急にバカらしく思えた。
たかが夢じゃない。
でも恋人のための着信音も止められずにいた。不安は消えなかった。
声が聞きたい衝動をなんとか我慢して、メールだけにとどめておいた。自分のために起きてくれたらどんなに嬉しいことかと思いつつも、こんなことで起こすのはかわいそうだとも心配してしまう。
っていうか、電話ぐらいじゃ起きないだろう。よく寝る人だ。
それに、明日は恋人とのデートが待っている。寝る前に電話で約束していた。
“光って、ときには人を不安にもさせるんだね”
明日会ったら、このメールの意味をちょっとカッコよく話してやろう。
結局眠らずに朝を迎えた。でも気分は上々だった。なにがあろうと、ちゃんと、しっかりこの気持ちは伝えたかった。
「完璧な人間なんていない」
これは浮気とかそのへんのことに対する決まり文句だな。
でも、不完全な人間なんてのもいないと思う。
で、そんな人間が相手の愛なんぞは、それこそ、それを求めるほうがちょっと都合が悪い。自分にとってか、相手にとってかは別にしても、いくらでも逃げ道はある。
完璧じゃないからこそ、完璧ってやつをお互いで築きあげていくもんじゃないだろうか。
むしろ、完璧じゃないからこそ、愛せるのかもしれない。
でも、ことあるごとに人は言う。
「……う~ん、完璧」
こうやって愛について考えだすと、やっぱり、どうしても客観的な見方ができなくなってしまう。
だから答えが出せないのか?
過去を参照したり、はたまた未来に不安を感じてしまったり……そして今はどうなんだとか考えてみたり。
いつの間にか「愛」っていうところから離れていってしまってる。
頭から心というか、理由はどうあれ、どんどん話がふくらんでいく。参照できる情報が多すぎるのか、ごくありふれすぎているのか。
目で見れないからなのか、それに当然のように囲まれていると、それについて考えるっていうことを自然としなくなるのかもしれない。
特に必要がないからだ。
たぶん、愛について考えるより、明日の献立とか、今月のケータイの支払い遅れそうだとかのほうが、現実的で、なおかつおもしろくて、そのときどきでは必要なことなんじゃないかな。
子供が熱をだして大変とか、夫が会議で使う書類を忘れていったとか、友達が実はピアノがうまかったとか、恋人の友達に芸能人がいるとか……道端ですれ違ったおじいちゃんが、突然パンクロックなんぞ歌いだした日にゃ~、もう楽しすぎてノリノリさ。
きっと、どうしても客観的に見れないものには、自分じゃ答えが出せないもんなんじゃないかと思う。自分で見つけた答えには、どうしても人の意見で確認したくなるからだ。
どうやら愛は主観でしかとらえられないようだ。
この今の世の中、科学者さんが「愛とはこれだ!!」とでも学会かなんかで発表してくれたら、それだと答えが出てしまいそうなものだけど、もしそんなことになれば、だれもが「そうじゃない」って言いだすだろう。
だから「愛」ってのは、永遠のテーマって言われるんじゃないだろうか。誰もが客観的に見れないから。誰もがそこに囲まれてるから。
愛すべき人と、愛しい人っていうのが、必ずしも一致しないっていうのと同じように、愛の形もまた同じじゃない。
愛する人が1人じゃなくてもいいように、愛っていうのも1つじゃなくていい。
子供を愛することも、友達を愛することも、恋人を愛すことも、全部が違うようで、同じであって、なかなかどうして違うもの。
愛すべき人も愛してると言える。
愛しい人も愛してる。
愛はいくつあってもいい。
ただ、不倫や浮気を擁護するってわけじゃない。
とはいえ、恋人の友達がブラピなんて言われたら、なにがあろうと会いたくなる。「そんなに会いたいんなら別れる」とか言われても、即答で否定はできないだろう。これは間違いない。そして、百万が一の過ちも期待してしまう。もしチャン・ツィイーなら、過ち期待度、9割だ。
失って初めて気づくのが愛ならば、そのとき愛についてゆっくりじっくり考えたらいい。
それでもやっぱり答えらしい答えが出ないから、人はまた愛することを繰り返す。愛することが答えであり、その理由であり、疑問であり、愛。
愛って、なにをどうしても主観的にしか見られないものだと思う。
もし愛を客観的にとらえることができたとしても、主観でしか見ることができなくなったとしても、今でもそこに愛はあるから。
だから科学じゃ説明がつかないんだろう。科学の盲点は“主観”じゃないかな。
さてさて、小説ってやつには、いろんなジャンルがありますな。サスペンスにミステリーに、SF、恋愛、歴史物、ファンタジー。ノンフィクションから半分フィクションまで。
しかしまあ、流行というのも否めないところ。ホラーが流行ったり、アクションで熱くなったり、SFのVFXに度肝抜かれたり……でも、そんななか、いつの世もほぼ常に恋愛小説というのは根強い人気でありつづけるようで。
記録的大ヒットはないにしろ、とりあえずはラブロマンスな感じの作品が賞をなめることも多いのは確か。でも、記録的大ヒットや語り継がれるような知名度を残すのも壮大なラブロマンス作品っていうのも認めざるを得ない。
まあ、個人的にはスリルとサスペンスのなかでドキドキしながらページをめくる、それが楽しみなんだけども。
ちょっと待て……話の展開が強引すぎやしないか??
まあいいや。
というのも、恋愛っていうのが、なんかこう……そういうジャンルの要素をすべて兼ね備えているようにも思えたわけです。些細ながらも、いろんな要素があるのが恋愛ではないかと、ふと生まれて初めて号泣した映画を見終わったときに感じたわけ。
サスペンスのようにドキドキしながら、謎を解くように悶々とし、たまには演出なんかも施してみたり。規模は違えど、ある日二人の過去を話しながら笑い合ったり怒ったりと、時間は短くても二人の歴史に名前を刻んでいくわけで。そんな折、過去の恋愛を振り返ってみたりもする。2度目の大きなケンカなら、それは小さな世界のWW2でもある。それがまた夢のような日々に変わったと思いきや、現実的な傷みや悩みを抱えながら、時には嘘が必要になるときもあるでしょう。でもそれは作り話なんかじゃない。
いや、さすがにこれはこじつけかな。
映画や小説だったら、この先が見たいとか、少しずつでも考えながら進めていける。あわや巻戻しだってできてしまう。「今なんて言った?」とか、現実ではたった1度の言葉さえ、何度でも聞けてしまう。
なにが正しいとか、なにが間違いだったとかも、きっとあとから考えてみて、やっとわかることなんじゃないかな。今こうして幸せだと感じられるから、あのときの選択は正しかったとか。そして今が幸せだからこそ、そうやって正解だったと言えるんだろうとか。どうしてあのとき、あの道に行かなかったんだろう、そしたら……とか。
後悔や答えが始まるより先にわかるものじゃないように、物事の正否っていうのも、あとから気づくことなんじゃないかと思う。
とはいえ、頭では間違ってるってわかってても、そっちのほうへ吸い込まれてしまうっていうこともある。
とまあ、こんなふうにいくら考えてみても、愛については、どうにもこうにも、「あとからわかったこと」になってしまう。
今ある愛については、あまり深く考えない。
愛しい人を愛するだけ。ただただその人を愛してるだけ。
そんなときは、愛して愛して愛して、その人を愛してる。
考えるっていうことより、ただただ気持ちが先行する。
なんでもないのに涙が出てきてしまうのは、現実に今ここに自分がいるからで、そんな自分が愛しいからだと、僕は思う。
そして、今わかったことがある。これを最後に締めくくろう。
あくまで、きょうの答えね。
僕が言える「正しい人の愛し方」の1つは、それはないということ。そして、どれもがそうということ。
「こうあるべき」っていうのは、きっと誰もの心のなかにあるとは思う。
だから、きっと自分の心が正しいと思った愛し方で愛せれば、それでいいし、それがいいんじゃないかな。
で、愛し方も、その愛も、1つじゃなくていいし、たくさんの愛があったほうがいいと思う。
ただ、こうやっていろんなところで見るように【正しい~】ってしちゃうこと自体が、正しくないことなんだろうなぁ~ともあとからわかること。
……あ、そうそう。
もう1つ。
あとは、愛されてる自分も愛してあげるということかな。
以上!!
- 2006年8月26日 00:34
- Essay
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- あとがき : 迷惑な話
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