終わりなきもの。
金。金。金……
それによって崩壊となっていった家族、親に対するそれでもある。
とりつかれたように働いた親。
僕らのためと言っていた。
でも結局は、自分のために見えた。
夜ごと店を渡り歩き、女の上をハシゴして、その女と落ちていく。果てしなく。
子供の僕には迷惑だった。
そして今、這い上がることすらできない見えない底でもがいている。
おれは金で育った。
金に育てられた。
聖徳太子のように親の言うことを器用に聞きわけ、福沢諭吉のように勉学をすすめた。
稲造さんは誰か知らない。一葉さんも最近知った。
夏目漱石のような『坊ちゃん』に生まれても、野口英世のような才覚はない。
コインのように財布になければ困り、ありすぎれば邪険にされた。
その金を稼いでいたのは親かもしれない。
でもその上に放り出された。
まるで金の絨毯だ。
だからきっと、人一倍金への執着心は強いと思う。
愛はない。愛なんて必要ないとさえ思えてくる。ぬくもりもない。差し伸べられる両手もない。
人の肌よりすべすべで、妙にあったかい。
でも体の芯は冷たいままだ。
生えかけの産毛を削ぎ落とすように表面だけを摩擦する。
自分が女と暮らすから余った分を置いていくだけ。
そう、そのころは金があった。
ただそれだけの話だ。
金のありがたみがわからない。
“時は金なり”というほど、そこまで重要なものなのか自信もない。
『ダヴィンチ・コード』のように、どこかの天才によって精巧に刷り込まれた罠かもしれない。
本当はそこに目を向けさせるためではなく、それ以外のもっと重要な何かがあるのかもしれない。それを狙っているのかもしれない。
『モナリザ』は、ダヴィンチ本人かもしれないし、母親かもしれないし、マグダラのマリアなのかもしれない。もしかしたら、そのどれもなのかもしれない。 どれでもないのかもしれない。
それがダヴィンチの教会やキリスト教、あるいは真実への復讐であるかのように。
現代になってやっとそれが解明され、注目されるようになって、初めてそのメッセージ性に気づいたというだけであって、本当はその当時の出来事を如実に示しているのかもしれない。
500年前には飛行機なんて考えられないなんて、単なる現代人のおごりじゃないか??
彼がもし現代に生まれていたら、その著作権による財産は天文学的な数字になるというのも、それ自体が天文学的な可能性だろう。
彼はあの時代に生まれたからこそ、“先見の明がある”とか“天才”と呼ばれただけなのかもしれない。
どちらにしろ可能性は無限だ。
現代が求める才能が、当時の彼っていうだけなのかもしれない。
この不況には先見の明が必要なのかもしれない。過去にさかのぼってそういうものを貪るのも悪くはない。
時代が求める才能は、時代に認められなければ才能とは呼ばれないのだ。
復讐も、今になってみないとわからなかったのだ。
終わらないから今なお続く。
そこに金がある限り。
おれの復讐に『ダヴィンチ・コード』は関係ない。
ただ単に、こないだそれにまつわるテレビ番組がやっていただけ。
その影響。本も読んだし。
あれはおもしろかった。話というより、ウンチクが……
そう、これは、おれの復讐でもある。
いつまで続くかわからないけど……もう終わってるのかもしれない。ずっと終わらないのかもしれない。
金に対して、家族に対して、そして、絆に対して。
裏切りや強がり、僕の弱さ。
- 2006年9月 1日 00:38
- Essay
ランキング参加中なので。
単語連鎖
- あとがき : 鏡像
- まえがき : いつか空に虹が架かる