"Essay" にまつわる文章のリスト

今日の今日にて、この場所で

 詩を書くというと、あたり前のように「気持ち悪い」と言われる。

 俺にとっては、あたり前のように詩を書く。

 おんなじ世界で生きてる人でも、

 その人によって「あたり前」が、

 こんなにも違うのかと、つくづく感じる。

 「あたり前」が、「あたり前」で通じないとしたら、

 なにを「あたり前」と呼べるのだろうか?


 そう呼ばなけりゃいい。

 人それぞれ違うなら、

 んなものは「あたり前」じゃないかもしれない。


 きっと“優しさ”っていうのも人それぞれにあって、

 人それぞれで受け取り方が違うように、

 いろんなことが「あたり前」で踏み倒せるように、

 いろんなことが「あたり前」では片づかない。

 「あたり前」を「あたり前」と呼べるのは、

 そこに自分のなかの何かがしっかりとあるからだと思う。

 それを大切にしたい。

  • 2006年7月27日 23:40
  • 松田拓弥
  • Essay

十把ひとからげ de 十人十一色

 価値ないものなんて、ありはしない。

 価値のないもの10コをまとめて1つにすれば、それはそれで役に立つかもしれないし。

 ワラ10本を1つにまとめれば、それがタイマツになるかもしれない。

 線香花火ほどにも及ばないほのかな炎も、大きく長く燃えてくれるかもしれない。

 強く、太く、大きくなる。

 なにかを1つにまとめたならば、それをまたバラバラにすることだってできる。

 1人じゃできないことだとしても、10人いれば、そこからいろんな可能性が広がってく。

 10人いれば、その人たちはそれぞれにその人の色を持ち、それぞれの色を放ってる。

 たしかにバラバラかもしれない。

 でも、そこに新たな1色が見えはしないか?

 10人の10色が集まったところに生まれる、その新しい1つの色。

 もしかしたら無色になって、そこに新しい色を作っていけるかもしれない。

 たしかにそこには、新たに生まれたもう1つがある。


 …それさえ食ってしまおうとするのが、アイツらです…

  • 2006年7月26日 05:23
  • 松田拓弥
  • Essay

その理由に濡れた朝露

 部屋に帰ってきたら、まずパソコンをつける。何よりまず、パソコンをつける。
 そして、心のなかで誰かがお経を唱えるてるようなブイ~ンって鳴ってるのを背筋に感じながら、その日着ていた服を脱ぎ、きちんとハンガーにかけて、部屋着になる。
 椅子に座って、タバコに火をつける。音楽をかける。とりあえずコンポに入ってるCDをそのままだ。
 階下に行って、ジュースか麦茶かウーロン茶をグラスに注ぎ、ブラシで手を洗って、また部屋に戻ってきて1本めのタバコを灰皿へ。
 そして2本め……


 頭がおかしくなりそうだ。
 誰もいないベッド。まわさない扇風機と、開け放たれた窓の外から聞こえてくる真夜中の声。風。雨。スピーカーから聴こえてくる聴き慣れた歌声。働かない脳ミソ。なんのために詰まってるのかもわからない。
 なんも考えてない。
 ただ指先が心のままにキーボードを打ちつづけてる。だけど感じてるのは、それはまるで心のない機械のようだってこと。
 頭でなにかを考えるのは、いつもそのあとだった。

 頭経由で恋をする人もいるだろう。
 そのために脳ミソがあるという人もいるだろう。
 頭で考えるのは、きっと人を数字にすり替えるときだけだろうと思う。
 頭で考えるより、心で感じていきたい。

「脳ミソが人間そのものだから」
 そんなことを言う人がある。
 間違いじゃない。
 だけどそこには夢がない。
 じゃあ、なんのために“心”なんていう言葉ができた? 耳に心地いいし、何より心に心地いい。
 それなら“魂”なんてもってのほかだろう…
 魂の抜け殻を集めて、人の脳ミソなんてできやしないだろう?
 意味なんてない。
 きっと理由なんてないんだろう。
 無条件であるのが、ありつづけるのが、きっと心なんだろう。

 いつもどおりのパソコンの画面と向き合って、嘘ばかりを並べ立てて、そこに安らぎのような自分のなかの虚像を浮かべては消していき、また浮かべては消していく。

 なにを腹に抱えているの?
 なにを心に抱えているの?

 悲しみ?
 喜び?
 …からっぽ?

 今はなんでかわからないけど、歌が欲しい。
 自分にはなにが一番必要かと考えたとき、それはすぐには浮かばない…
 でもそんなときはたいてい鼻歌が自分のなかから流れてくる…

 歌に癒されるとか、その歌詞に癒されるっていうなんてことは、まずない。そんな経験は今までに1度としてなかった。
 アーティストや歌ってる人や人気や流行で決められる歌に、そんなに簡単に自分が思ってることや感じたことは重ならない。
 というこの言葉も、いっときの流行歌の歌詞なんだから。
 そんなとき、自分で自分の歌を作りたいと感じることが多い。
 1度、その日の日記を“歌”にしてみようと試みたことがある。でもできなかった。歌にも歌詞にもできなかった日がすぐにあったからだ。

歌詞を書くことは、そんなに大変なことじゃない。自分の感じたことをそのまま言葉に託せばそれでできあがってしまう。
 歌はうまくなくたっていい。売れなくたっていい。
 それが歌なら、それはもう歌なんだから。

 本当にその歌詞がよくてCDを買う人は、あまりいないんじゃないかと思う。ヒットチャートに上らないとその歌を知ることもないだろうし、その人の詩集だけが出てもそれを買うとも思えない。
 それは、自分で歌詞を書くようになって初めて気づいたことだった。
 歌詞は書けても、そのメロディーが、その日その日で変わってゆく日記のように、自分の気持ちだったり景色だったりが、全然変わらないのがつらかった。
 心地いいのは旋律で、心が揺れてしまうのが歌詞だと気づいた。

 俺はなにもわかってなかった。
 たまに本気で死んでしまいたいと思うことがあった。ふとしたときにそれは突然やってきた。
 街中をぶらぶら一人で歩いてるとき、すれ違う他人と一瞬だけ目が合ったとき、部屋でタバコを吸ってるとき、それはいろんな日常のなかで俺を襲った。
 でも、人の死っていうのは、もっとも非日常でありながら、もっとも日常なものなんだと思える。
 誰もが人はいつかは死ぬとわかっていながらも、人の死には「あり得ない」がつきまとう。
 そんななかで“自分の死”っていうのを考えてしまったとき、どれだけの人が「あり得ない」って言ってくれるかということも考えてしまう。死にたいとか消えたいとかを考えながらも、生きたいとも強く思ってる自分がいる。
 死と生が裏腹なように、常に裏腹であることこそが生きてるっていうことなんだと思う。
 だから自分が生きてるうちに、人の死っていうやつと真剣に向き合うっていうこと自体があり得ないんだと思う。

 生きてくための理由を探しながらも、死ぬための理由も探してる。
 どっちもなかった。
 それが現実だった。
 なにから逃げたかったのかもわからないけど、それが自分に突きつけられた現実だった。
 自分は誰からも必要とされてないとか、生きてる理由がわからないとか思ったりした。夢がある。それに向かって進んでるつもりだけど、いつまで経ってもそこに近づいてるのかも実感がわかないし、やがては近づいてるはずがどんどん遠ざかってるんじゃないかと思えたりもする。
 人がいて、話すことも視線すら交わさずにすれ違って、そればかりを繰り返して…
 これだけ人がたくさんいるのに、自分が知ってるのは、知りえるのは、ほんのひと握りほどにもいない。そのほかの人は、もし自分が死んでも涙も流さないだろうし、そんなこと知りもしないだろうし、知る由もない。
 他人はあくまでも他人以上にはなりえない。ほんの少し話したぐらいじゃ、きっと“知人”っていうレッテルを貼ってその記憶の抽斗のなかの片隅にしまってもらえるぐらいだろう。
 それが急にむなしくさえなる。
 結局は「他人は他人、自分は自分、仕方ない」という世の中で、自分がどれだけのことを伝えようとしても伝わるはずがない。すべてがムダだとは思わないけど、そのほとんどがムダに思えてくる。
 そんなとき、自分に問う。

<なんのために生きていくの?>

 宝くじを当てるよりも低い確率の自分の人生に、どんな意味があるの?
 サイコロ振ったところで、出た目は、いつも同じとは限らない。
 でもそれと同時に、自分に問う。

<じゃあ、なんのために死ぬの?>

 誰にも愛されてない、愛せない、気づいてもらえない、知ってもらえない、必要とされてない。裏切られるのが怖いし、孤独になれば不安だし、もし自分が消えても誰も涙を流さないなら、せっかく自分にもある涙は誰のために流せばいいの?

 理由なんてなかった。
 生きることにも、死ぬことにも。
 居つづけることにも、消えてしまうことにも。
 理由もなく死のうとするのは、むなしいだろう。
 と、そう感じること、それすらもむなしくなるんだろう。
 生きてることに理由が見つからないから死のうとするのも、きっと同じだ。
 もしも見つかったとして、だからどうするの? その理由でなにができる? その理由で自分を生かすことができるのか?
 生きるだけなら、少なくとも今までだってできてたことなんだから。

 1度なにかを考えだすと、なにもかもが疑わしい。
 自分がそうやって思ってることすら、今じゃ何もかもが疑わしくなる。自分が生きてることすら疑わしかった。見えても呼吸できても考えてても、それ自体も疑わしかった。
 でも、消えてしまえば、そうやって疑うこともできないし、疑い自体が消えてしまう。
 自分が消えてしまえば、自分のなかにある自分のことも消えてしまうと思えたとき、そっちのほうがむなしいと感じた。
 自分が生きてるってことに気づいてほしいと思いながら、それを自分から消してしまうことのほうが、よっぽど悲しかった。
 なにもできない無力な自分。自分の存在意義すら見出せない自分。
 こうやって思ったり感じたりすることすら、むなしいと感じてしまうむなしい自分。
 ただただ、むなしさがこだまする。
 でも、信じたい。


 また生きていこうと思う。
 涙が枯れてしまうほど泣いたあの日を思いだせば、もう涙を流すことが怖くなる。傷つくのが怖くなる。傷つけられるのはもちろん怖い。でも、逆に傷つけるのも怖い。
 自分では知らぬ間に傷つけてしまった人たちに申し訳ない。そんなことはしてないとは言い切れない。
 完璧な人間なんていない。それを操作する人がミスれば、ロボットだってミスをする。
 言ってしまえば、神様だってブサイクだ。見たことはないけど、きっと眉毛の手入れも髪の手入れもしてないでしょう。
 もしかしたら、カントン包茎かもしれない。女性であれば、きっと隙間に無数のパッドっを入れまくってるはずだ。
 ホントは、“人の不幸は蜜の味”ってあの言葉、神様が作ったものかもしれない。

 枯れてしまうほど泣いても、涙は枯れてはいなかった。
 この涙が流れなくなるまで、俺は生きていこうと思えた。
 我慢しても我慢してもどこかから涙があふれてくるうちは、俺はまだ死ねない。
 所在も理由もわからないけど、そんなのいらない。
 自分のためにも、人のためにも、せっかくもらった涙があるまでは…
 もし朝露とそれを見間違えても、それはきっと幸せだろう…

 だって俺は、生きてんだから。

  • 2006年7月24日 23:55
  • 松田拓弥
  • Essay

本気の嘘は、時に真実。

 なぜ? …なぜ? ……なぜ?

 今ごろ気づく。
 あのとき手を伸ばさなきゃ…あの日、ピアノを弾かなけりゃ…あの瞬間、涙をこらえてれば…

 後悔先に立たずとはよく言ったもんだけども、でも、わかっちゃいるけどやってしまうということもあるわけだ。
 わかっちゃいるけど、奥歯の牛スジが気にかかる…おっと、隠しながらも思わずシーハーしちゃう焼肉屋のOLたち。
 わかっちゃいるけど、今は日記が書きたくて…くわえ煙草でしかめっ面を浮かべてる一流企業の社長秘書。
 わかっちゃいるけど、このままなんて帰れない…口先三寸の「愛してる」

 でもすぐバレる上辺だけの心の内。
 たとえ嘘でも、その時だけは本気になれる。
 騙しはしないさ。
 そんな自分に騙される。
 …そんな自分。

 そんなのも「アリ」じゃない??

  • 2006年7月23日 06:28
  • 松田拓弥
  • Essay

垂れ流し

 おれはクソみたいな言葉を、クソみたいに垂れ流す。

  • 2006年7月20日 01:25
  • 松田拓弥
  • Essay

ながぁ~い眼

 また同じこと書きそうで怖いが…ご了承あられぇ~い!!

 「貸し借り」
 …これはかなりシビアな問題だな…

「たとえどんなに大切な恋人だろうと、なにがあっても“保証人”にだけはなるなよ」
 これ、うちの父ちゃんのお言葉だ。
 一理ある…たしかに、一理ある…

 俺もそう思う。

 俺はこう思ふ。
「本当に困ってる人がいたら、自分がそのときどんな状況だろうと、自分から手を差し伸べる人になれ」

 カネを貸してくれ。
 カネを借りてくれ。
 全然違うな、この言いまわしだと…感じ方の問題だ。

 カネの貸し借りが、やっぱり一番いい例になる。
 まずは結論から出しておくと、こうだろうな…

【金額のデカさじゃない。精神的な重さだ】

 たとえば、こんな2人の場合。
 ある友達の男が100万円借りたとする。別にカネにそこまで困ってるわけじゃなく、ただ単に衝動買いするためだ。競馬するためのカネでもいい。
 そしてある日、まとまったカネが入った。
<あ、そういえば…行くとするか>
 借りてた人に、その金額より少し利子までつけて借金返済した。
「あ、どうもな。助かったわ」
「あ、そうか。利子までつけてくれて、こっちこそなんか悪いな…」

 本当にその日暮らし困ってる人に、1000円貸してくれと頼まれた…不信感…返してもらえるはずがない…何に使うのかもわからない…でもまあ1000円だし…
 貸した。もうあげたも同然だった。
 ある日、その人が借りた1000円だけを携えてやって来た。
「本当にあのときはありがとう。本当に助かった。ありがとう」
「いえいえ、こちらこそお役に立てて光栄です」

 どうだろうか…
 前者の友達からカネを受け取った瞬間、【もう次はない】と心のなかで感じるだろうと思う。しかも、貸したほうの人間が、利子までもらって無意識にでも“申し訳ない”という劣等感を味わうかもしれない。しかしまあ、単に“ラッキー!!”と感じる人、“友達だろうが何だろうが、利子は当然”という人も少なからず。
 後者のほうでは、むしろその相手を疑ったことを、自分を恥じるんじゃないかと思う。

 金額の問題じゃないんだと思う。

 借りた側の人にとっては、その金額よりも、精神的な負い目というか、どれだけそこに気持ちがあったのか。
 貸した側の人にとっては、その金額よりも、貸した人からの言葉や気持ちをどれだけ受け取れたか。

 ただの偽善者なのかもしれない。自己満足なのかもしれない。神様みたいな慈愛なのかもしれない。
 見返りを求めないっていうのは、やっぱり本当に難しいことだけれど、でもそれが気持ちの上では本当に大切なことなんだと思う。

 助けたら、やっぱり嬉しい。
 助けてもらっても、やっぱり嬉しい。
 どっちにしろ、先にも後にも、お互いに気持ちのいいものでありたい。
 恩着せがましいのは、お互いにとって、気分が悪いと思う。
「あのとき○○貸してやった」
 これはタブーだと思う。

 …人に何かをしてあげる…
 …人に何かをしてもらう…

 この「してあげる」と「してもらう」っていう言葉が入ると、どうしても気持ちの片隅になにかがひっかかる…それは俺だけかもしれないけど、これを取り除ければ、もっと気持ちよくなれると思う。
 難しいけど、それを『なっがぁ~い眼』で見てほしい。
 ゴミを捨ててあげた・カネを貸してあげた・灰皿をとってあげた・頼まれたものを買ってきてあげた…
「仕方ねぇ~から捨ててやったぞ?」
「じゃあ、5000円貸したわけだから利子は…10万だな」
「押しつけて消すなよ? 灰皿に跡ついて汚れるから」
「んじゃ、パシリ代としてお釣りの30円はいただきね」
 たとえが小規模すぎて無意味かもしれないけども、相手としてはほんのりムカつくだろうと思う。

 …なんでそんなことする必要あんの? 普通に渡してやればいいじゃん…

 でも、そこがミソなんだわ。
 たしかに必要はない。
 ただ、相手に精神的な負担を取り除くため…
 いやむしろ、それをした人のほうが悪いことしてるように思ってもらうため。
 ものっすごくちっちぇかもしれねぇ。そんなこと気にするほうが、ちっちぇ人間だとか言われるかもしれねぇ。
 でも、そういう精神的な負い目ってのは、時間が経つほどに大きくなってくると思うわけです。
 そのときは普通に接してたはずなのに、あとになって「ああ、あいつには世話になってるなぁ~」なんていう感情がふとした瞬間にわきあがってくるものだと、俺様は思うわけ。

 でもこれも、一種の【優しさ】と受け取る人もいれば、ただ気づかずにそのまま【ムカつく】っていうだけで終わる人がいる。

 そんな場合、「あいつはひと言多い」とか「失礼だ」とか「常識がない」とか、言いたい放題に言われる。
 優しさと気づいた人には、もっと重くのしかかるか、「実はいい人」っていう感じにでもなるのかしら…
 まあ、そのへんは摩訶不思議なところですな。

 どっちにしろ、自己満足の世界かもしれないけど、俺はそういう些細な、本当に些細すぎることかもしれないけど、小さな優しさというか、さりげない優しさとかいうのが、大好きだ。
 俺が好きなだけだ。
 まわりの人だれにでも認められる【優しさ】よりも、その人なりのちっちゃな【優しさ】のほうが嬉しかったりするだけであって、そういうのが好きなだけ…けっこうフェチに近いかもしれまいに。

 不器用な人の、そんな【優しさ】に触れられたときは、筆舌に尽くしがたい嬉しい気持ちになる。
 きっとそれは、その人にとっての精一杯の優しさだろうか…
 自分も優しい気持ちになれたような気がする。

 ああ…また長くなりすぎてる…大学生の論文みたいな長文だ…でもいいとこ“C+”ってとこかな…

 【優しさ】も、【なっがぁ~い眼】で見れば、【ムカつきのかけら】なのかもしれないな…

  • 2006年7月15日 01:48
  • 松田拓弥
  • Essay

現実と虚構の螺旋

 人の心のなかにこそ、ある。

 【リアル】

 人の心のなかにだけ、ある。

 【真 実】

 フィクションだからこそ、それがあって、よりリアルに感じてしまう。


 もしそれが本当に現実であったなら、人はきっと傍観者になれない。

 怖い。

 ホラー映画とかを観たら、結局は夜に眠れなくなってもこう自分に言って聞かせる。

「あれはフィクションだ」

 フィクションだからと言えども、でも、現実に起こりうるからこそ感じる。

「あり得ない」

 自分のなかでなにかのつじつまを合わせるように、まるでそれに縛られたように、そのなかで流れていた“時間”だけを追っていく。

 ………。

 もっとも非現実的で、もっとも現実的なもの。

    【死】

 ………。

「あり得ない」

   【恐 怖】

   【 夢 】

   【 愛 】

 ホントの恐怖も、ホントの愛も、現実には誰にもわかりゃしない。

 誰かが作りあげた虚構のなかにそれを見つけて、ともに涙を流したり、背筋を凍らせ震えたりする。


 “人は、自分以外の誰かの頭のなかに住みたがる”


 人がもっとも怖いのは、人。

 人がもっとも怖いのは、自分。

 誰かに嫌われたくないのも、人の目を気にするのも、そのすべては自分のなかにあるのだから。

 フィクションのなかにこそ、人は、それを見いだす。


    【リアル】


 人を惑わす【現実】のなかの【真実】が、そこにある。


    【フィクション】

 なにもかもが起こりえる、今そこにもある現実。

 なにもかもが起こりえる、今もそこにある虚構。

  • 2006年7月14日 00:06
  • 松田拓弥
  • Essay

 普段、“感情的”ってやつになることがない。

 でも、“歌”と寄り添ってるときだけは違う。

 自分が1番感情的になれるのが、ぼくにとっては歌にある。

 だからぼくは歌いたい。

 どれだけ涙を流したか…

 今、泣きたくても泣けないっていう人が、どれだけいるだろう…

 ぼくは、そういう人たちが泣ける場所を作りたい。

 一緒に泣けたらいいと思う。

 泣けない人が流したその涙に気づいてあげられたら、ぼくはそれでいいと思う。

 もしも“心”がそれだとしたら、ぼくは、そのスイッチを押してあげたい。

 ぼくには、涙に触れることを許してほしい。

 それが“歌”だと思ってる。

 -人の心に触れる言葉-

 -人の涙をなぞる詩ー

 -ともに流した涙の祈り-

 だからぼくは歌いたい。


 泣いちゃいけない男はいない。

 男だって泣いていい。

 男だって泣いたらいい。

 誰がダメだと言えるだろう。

 もっと涙を流せばいい。

 どんなに泣いても涙は枯れることはないんだよ。

  • 2006年7月13日 19:34
  • 松田拓弥
  • Essay

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