親友という存在の距離

 とはいえ、“友達”ってやつのとらえ方だって、人によっていろいろなんだろうなとも思ってる。

 なんでも気兼ねなく話せて、なんら気を遣わなくてもいい相手。
 いつもそばにいてくれる人。
 笑い合える仲間。
 つらいことも笑い飛ばせてしまえそうな関係。


 最近思ったのさ。


 ひと口に“親友”って言ったって、そんなもんは自分のなかのとらえ方1つがすべてじゃんて。
 でも、みんながみんなそうじゃない。
 それもまた自分のなかのある基準のもとに、そういう抽斗にしまってんのかなと。
 そうじゃなきゃ、そう呼べる人と、そうじゃない人との違いがない。
 じゃあ、そのときの気分次第で友達の区別もなくなるのかって言ったら、そうでもない。
 もともと友達に区別なんてしてないって言ってしまえば、それはそれでカッコいいだろうと思う。
 でもやっぱり、人間だからな。したくないことでも、やっぱし差別化はしてしまう。というより、したいんだろうと思う。


 人間だれしも、自分のなかに不可侵な領域ってのを抱えてると思う。
 それはきっと絶対的で、他人には踏み入り得ない場所。


 自分のなかの、自分だけの“特別”が欲しいんだと思う。


 で、おれがふと感じたのは、先に結論。指定代名詞とかもそのままだ。


 その距離ってやつをお互いがわかった上で、その一定の距離を保ちながら、常にいる存在。

 さて検証してみよう。


 “友達”ってひと言だ。
 じゃあ、“親友”もひと言だ。
 でも、自分のなかや人のなかに浸透していく響きは、全然違う。

 さっきも書いたけど、人それぞれにあるのが友達だと思う。
 でも“親友”ってのは、きっと、なんとなくでも誰にとってもある程度の重みは伝わるんじゃないかな。意味とか細かいとらえ方は別にして。


 なんでも話せるのが親友じゃない。
 なんも気ぃ遣わなくていいのが親友でもない。

 親友だから話せないこと、話さないことってある。
 親友だから働いてしまう気遣いだってある。
 親友だからこそ踏み込めないところがある。


 だからって“友達”っていう響きや意味や存在が、かるいってわけじゃないんだな。
 逆に友達から話せないことがあり、気遣いもあり、距離をおく場合もある。

 でもそれは、きっと理解だとかお互いがとかじゃなくて、自分からそうしてるんじゃないかなと思うのよ。
 自分がもうこれ以上は踏み込まれたくないって思った時点で、相手にもそうする。気を遣われたら気を遣ってしまう。
 でも、知りたいと思ったことは知ろうとするだろうし、自分がしたいことは相手のことお構いなしでするんじゃないかと思うし、できるんだと思う。
 まあ、乱暴な言い方をしてしまえば、それって自分自身への気遣いだと思うわけよ。


 そのへんで、感じ入ることの多い親友っていうのは、きっと“お互い”っていうのがキーなんだろうと思う。
 すべてが感覚で、なんとなく感じてることなのかもしれないけど、お互いに居心地のいい距離っていうのを保ったままでいけるんじゃないかと思うわけ。
 “保てる”って言ってもいい。
 だから簡単には崩れないんだろうし、そういう友達というか関係の人が自分にもいるっていう人じゃないと、その関係を理解できないんだろうなと。

 まあ、恋人にしてもそうだけど、その関係は簡単に崩れるし、崩せる。しかも、時にはものすごい些細なことで。そのくせ修復するのはかなりムズい。
 友達やってたやつとも、すぐに疎遠になれるし、なったところで特になんら気にもならなかったりする。
 それはきっと、そこに欲があるからなんだろうな。
 恋人ならそれ以上が常に欲しいだろうし、友達なら、変にもっと仲良くなれるかもとか目指してたり、どこまで気が合うのか無意識に試してたり、ついには飽きがきたりするんだろう。

 なもんだから、常に自分自身との関係なんだと思う。
 それを崩すも崩さないも、自分次第。
 我慢できなくなれば壊せばいいし、忍耐できるまでは我慢しようとか感じるんじゃないかな。
 距離というか、そういう欲というか、自分自身というか、そういう要素もろもろが複雑に一定でいられないんじゃないかなと。

 かといってバランス保てとかそういうことでなく、自然とそういうふうになってしまう危うさと背中合わせってのか?
 ちょっと自分のほうがテンション高いかなって感じてしまえば、相手にもそれと同じものか、それ以上を期待したり望んだりしてしまう。疎遠になったかなって感じれば、それは相手のほうが離れてったとか、自分の不安を人のせいにしてしまったり、つい共感や理解ってやつを押しつけてしまう。

 本当に相手のことを大切に思えば、あえてをそれを壊そうとは思わないと思うわけ。
 まあ、“壊してまでの想い”とあらば、それはそれで素敵ではあるけども、その情熱に乾杯ってだけだ。それで嬉しいのもいっときかな。
 やっぱ人の大切さって決してそうではないと思うわけ。それもまた自分であって、きっとお互いではないと思うわけ。結果的にいいことになったとしても、ほかの部分でなにかしらの不具合が出てくるんじゃないかなと。
 相手のなにかを壊してまで、自分との距離を縮めようとする。自分のなにかを壊すために、相手への理解を深める。
 簡単かつシンプルに、そして乱暴なリアルさをもって言ってしまえば、“捨て駒”かな。


 親友って、きっと、いいところはもちろんだけど、相手のヤな部分も見えてるんじゃないかなと思う。
 “ごちそうさま”って引かれるぐらい褒めることもできれば、逆に、“そんなに嫌い?”っていうぐらいのものすごい些細な悪口まで言えると思う。賞賛も批判も、人一倍の知識でできるはず。
 でも、そういうのも全部ひっくるめてなのか、そういう部分はお互いの距離の外に置いておけるぐらいの親密さなのか。
 ただただ“受け入れられる存在”っつーのかなぁ~。

 これ不思議なもんで、いったんその人のことを“親友”って口にしただけでも、自分のなかで全然違う。
 その人のなんかが、自分のなかにスーッと染み込んでく感じ。「親友」って言葉を吐き出したにも関わらず、空気っぽくもあり、水っぽいなんかが、自分のなかで満たされてく気がする。
 わりと、言葉にして外に出せるって、思いのほかすげぇことだと思うのよ。


 ただ、“空気みたいな存在”ってのとは、また別だと思う。
 きっと、いてもいなくてもいいんじゃないか。

 どんなに暇なときでも必要じゃない。連絡しようとかも特に思わない。
 でも、いるんだよな。


 そこが、おれの一番感じるところ。そのへんの友達とか、そう簡単に見つかる存在じゃないっていう部分。


 いなくてもなんら支障はないけど、いる存在。もうこの際“ある”って言ったほうがしっくりくるか。
 モノとかいうとらえ方じゃなく、人とかいうことでもなく、存在っていう感じ方。

 もう信仰に近いか。
 信じる信じないもその人の自由で、それを信じたからって、これといったご利益があるわけでもない。
 でも、なんとなく精神的にというか、心がというか、自分自身がより豊かになったような気がする感じ。


 きっと、どんなにつらいことを話したり経験したところで、一緒に泣いてほしいとか共感してほしいとかいう期待はしないし、望んでもいない。理解してくれとも押しつけないだろう。
 むしろ、もしそういう経験を共有したんなら、そのときはきっと、あとで一緒に笑うんだろうなとすら思える。


 迫らず、離れず、強要せず。

 絶対的ではない安心と距離を、人にしてはきっと、ものすごく難しいそういう距離を保てる距離。

 どっちかが近づきすぎれば、自然と離れ、遠くへ行きすぎれば、また戻ってくる。
 かといって、ありがちな比喩表現“漣”みたいな打ちっぱなしじゃなく、きっとそういう自然のなにかでたとえられない人工的な自然さ。
 どっちかがそれをうまく調整するんじゃなくて、どちらともなく調整しつつ、距離を保つ。
 やじろべえ。
 あっちに傾きすぎれば、多少強引にでも力で引っ張るだろうし、こっちに傾きすぎれば、目一杯突き放しもするだろう。
 そのへんの調整ができないで親友って呼び合ってても、きっとそのうち簡単に崩れる日がくると思う。というより、崩れたときに修復がきかなくなるだろうな。
 さらには、そんな修復が必要になるぐらいの状態になること自体、それまでって気さえする。
 “ケンカするほど仲がいい”のは、友達だ。

 もしかすると、“親友”って呼び合えるのは、ずっとあとになってからなのかもしれない。
 “あ、親友じゃね?”みたいな。
 それまでに何かしらの理由で壊れてしまえば、そんなのは親友じゃなかったって気がする。きっと理由が必要になるのは違う。


 なにかお互いの感覚的なものいろいろがうまいこと絡み合って、それでいて感覚的になにかとうまくいくのが親友なのかな。
 なにをするにも度が過ぎない。もしあるとすれば、お互いがお互いに気持ちよくバカになれるときとか。
 崩れない距離。壊れない加減。
 きっとそれが親友であるための、いや、“ための”ってのは違うな。
 それが親友であるお互いの支点かなと……

 ほらきた。

 “支点”

 いいねぇ、きたねぇ、これ。
 かなりしっくりきた。


 だからいつも、なんとなくいつの間にかそこへ戻っていってしまうんだろうなと思うのよ。
 で、そのとき“そういうときだけ連絡してきて”っていう言葉が出ないのが、きっと親友なのかなってな。
 


 まあ、それはただ単におれにとって居心地のいい関係とか距離っていうだけかもしれんな。
 “親友に言葉はいらぬ”なんていう歴史があるのに、感情論と頭でこんなこといちいち考えくさって親友面してられんのかな。頭で考えて出てくる親友っていうものに、どれだけの価値があんのかね、まったく。


 たぶん、親友にもいろいろあるんだろうけど、きっとそうなるのって一瞬なんだろうな。
 時間をかけてゆっくり熟成させた絆ってよりは、そう感じたあとで熟成させてく深さなんだろう。
 恋愛と同じで、きっとその場で親友って感じた瞬間から、もうその人とは親友なんだと思う。
 だから親友ってのもきっと、親友は親友であり、それ以上でもそれ以下でもない。

 きっと、大なり小なりお互いのあいだに核となる何かがあって、それをお互いが、お互いの距離で共有しながら、あるんだろうなと。
 そのくせ、親友なんて、あってないようなもんだ。そこに固執するもんでもねぇ。
 核さえあれば、分裂はいくらでもできる。それらすべてがその核から生まれ出でた新たな核だ。


 ああ、やべぇ……


 キタ。


 親友とは、“友情フレックス”也。

  • 2007年3月23日 01:54
  • 松田拓弥
  • Essay

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