"Essay" にまつわる文章のリスト

一緒に楽しみたいだけだった…

 俺はずっとバスケをやってた。

 いろんなことがあった。
 ホントにいろんなことがあったと思う。
 小学校の卒業アルバムのタイトルも『つらかったキャプテン』だったのは、先にも後にも笑いのネタだった。誰もが読んで俺に聞かせてくれたもんだ。
 とにかく、なんでもかんでも「キャプテン」だった。褒められるのも、怒られるのも、キャプテンの俺だった。それがイヤでイヤでしょうがなかった。

 はっきり言って“キャプテン”なんて肩書きはクソに近い。

 褒められるのもみんなだし、怒られるのもみんなのはずだといつも心のなかで思っていた。でも口には出せずにいた。
 でもチームメイトのお父さんお母さんたちは、いつもすごく俺に気を遣ってくれてたのを憶えてる。試合に勝ったときはすごく優しく接してくれた。負けたときは、もっと優しかった。


 小学。
 中学。
 高校。
 専門学校。
 かなりのバスケットバカだったと自分でも思う。
 でも、それで良かったと今は思う。
 はっきり言って、なんの役にも立たない。メシも食えないし、プロになるなんてのも、毎日まいにち飽きもせずにタバコを1日に1箱以上吸ってる時点でまず叶わない。
 というよりまず、高校最後の年の練習の最中に、しばらく呼吸ができなくなって死にかけてる時点でムリな話だ。たかだか高校の練習ごときでだ。

 でもメシを食うより大切なことがいっぱいあったから、そしてこんな今だからこそ良かったと思えるのかもしれない。


 さてさて話は変わって、ず~っとバスケをつづけてきて、笑っちゃうほどに気づいたことがある。

 “補欠ほど、試合以外で燃え尽きる”

 これは、楽しんでるんじゃなく、とにかくはりきってマジもマジ、大マジでやってるという意味…
 部活の練習のときより汗をかき、部活では見せないようなことまでやってみたり、とにもかくにもノールック…挙句の果てには、素人相手に「ファウルだろ!!」の連発で本気でキレてるし…

 わかる…よくわかる。それは、わかる。
 大会とかの試合に出れないし、出れても練習試合の残り5分とか後半だけとか…その分、そういうところでイイカッコしたいというのはわかる。
 でも、それは見ててこっちが悲しくなる。
 そういう人に限って、ただ見せびらかしたがってるだけに映るから。
 素人相手に、自分がうまいのは当然だ。もし下手に見られるようなら、「部活でなにやってんだ?」と言われても仕方ない。ファウルされたくなかったら、ファウルされないようにかわせばいい。

 でも、昼休みとか、放課後にちょっと残って仲間内でやったりする人たちっていうのは、単に「楽しみ」でやってる。ジュースとか賭けてるわけでもなければ、勝ち負けなんてランク外。俺も彼らと一緒に混ぜてもらっててそう思った。
 楽しくやりたいから「ファウル」だってその1つと思ってた。
 部活ではやっぱり勝ち負けが第一となってしまうから、それ以外では、一緒にバスケを楽しむことしか考えてなかった。
 笑いながら強引に抱きついて振りまわしてもアリっていう、そういうのが楽しかった。
 体育でも何でも、困ったときにだけ頼られてナンボのバスケ部だと思うし、頼んでもいないのに自分ばっかり目立たれたんじゃ、きっと次はもう声がかからないと思うわけだ…
 自分が楽しくやりたいから、まわりの人にはもっと楽しんでほしかった。


 “一緒に楽しむ”っていうところだと、高校の球技大会が一番印象に残ってる。忘れもしない…あいつら。
 良かった。
 バスケ部は1クラスに1人だけという球技大会ならではのルールがあった。そのとき同じクラスでバスケ部のやつがバスケに手を挙げていた…そいつに任せとこうかなぐらいの感じで、俺はなぜかできもしないソフトボールに手を挙げてたのだけれども、「殺す」と脅されては仕方ないので入った。さらに“ゲームキャプテン”という肩書きまでいただいていた。
 一応バスケ部ではないにしろ、小学や中学での経験者がほとんどのチームだったということが噂で流れ、たちまち“優勝候補”のレッテルが貼られたみたいだった。
 最初の何試合かは、ほかのチームメイトだけで充分だった。4人でも余裕で勝てたと思う。ほかのチームの人たちとは、やっぱり動きの格が違った彼らだった。

 だけども、準決勝…バスケ部はゼロにしても、全員が中学時代に部活で本格的に経験したチームと当たった。
 2点とっては2点とられ、3点とっては4点とられた。俺はパスに徹していた。それでも常に接戦だった。彼らはやっぱりすごかった。
 そして後半残り3秒ぐらいだったらしい…そこで俺がパスを受けてしまった。
 すでに4人に囲まれていた。バスケ部といえど、いや、逆にバスケ部だからこそ俺はビビッた。んなことはあり得ない…とにかくもう俺は強引にそいつらの隙間に割り込んで、シュートした。実際、かなりテキトーだった。フォームもクソもあったもんじゃなかった。
 シーンと静まりかえった。
 応援に来てたクラスメイトも、ギャラリーも、先生がたも、その会場にいた誰もがそのボールの放物線を目で追っていた。
 俺はすぐに審判を見た。その指はしっかりと3本立っていた。
 試合終了のブザーが一瞬の沈黙を破った。
 と同時に、会場が揺れた。いろんな声が飛び交った。笑い声。ゴッツい声。怒声。悲鳴も聞いた。
 俺はぶっ飛んだ…その先で、なぜか俺は応援に来ていた担任の田中先生に視線を向けていた。メッチャ笑ってた。跳ねてた。まるで吼えつづけるサルだった。
 そのまわりにいた女生徒たちは、チームメイトの上にどんどん飛び込んできていた。
 電子掲示板を見ると、しっかりと同点になっていた。
 俺はどうやらやったらしかった。プロバスケのビデオを観ながらいつも夢見てた、試合終了と同時の得点…
 んで、そのままフリースロー対決になり、俺以外のみんなが決めてくれて、見事に決勝戦に進んだ。

 決勝戦は、同じバスケ部のポイントゲッター率いるチームだった。予想どおりだった。
 そして試合は、その序盤からそのポイントゲッターに球が集まり、常にそいつが決めていた。
 それでもこちらは接戦にしていた。またもや俺はパスしかしていないのに、バスケ部でもない彼らの活躍だった。攻めに守りに、バスケ部に引けを取らなかった。
 でも試合終了のブザーが鳴ったときには、惜しくもなくうちのチームが負けた。

 最後までパスに徹して得点はほとんど彼らに任せていた、自分の得点力のなさだと彼らに侘びを入れた。
「いやいや、楽しかったよ」
 本気で涙が出そうなぐらい嬉しかった言葉だ。
「楽しくやれたんだから、いいじゃん。謝んなって、キャプテン」
 背中をポンポンとたたくというしぐさが、こんなにも人に嬉しい感じを与えるとんでもなく素晴らしいものだと気づかせてくれたチームメイトたちだった。

 たかが球技大会で打上をしたのは、このときが最初で最後だった。そのとき彼らをバスケ部にスカウトしたのも無理はない。
 でもあっさりとこう断れた。
「疲れんじゃん」


 こう思いだしてみると、俺ってけっこう青春バカかもしれないと思ったり思わなかったり…とはいえ、青春バカが大好きです。アツアツな人が大好きです。

 とにもかくにも、やっぱり“一緒に楽しむ”っていうことは大事なことだと思う。一緒にやれる仲間がいて、一緒に楽しめたら、それ幸いにして、最愛であり、最。

 なんか想い出話やら自慢話やら、本当に自分の身の上になってしまいましたが…
 とまあこんな感じで、バスケを通していろんなことを学べたし、今なお生きることも教えてもらえたし、やっぱりずっと続けてきて良かったなと思えます。
 あの準決勝みたいなシチュエーションでのシュートも、現役のときには何本も決めさせてもらいました。そのときはやっぱりヒーローみたいに、チームの全員が褒めてくれる。ひっぱたかれたり、蹴られたり、ぶっ飛ばされたり…でも、試合が終われば、みんながヒーローです。
 ヒーローなんていないと誰もが思う。
 でも、ヒーローがいないと感じたら、もうそのときには、自分もヒーローの一員になってるときなのです。
 ヒーローなんていなくてもいい。
 どうしても欲しいときには、自分で自分を褒めてあげてください。


 で、今はそれが“書くこと”になっています。小説だったり、詩だったり、歌だったりもしますが、どれもこれもが大切な自分の人生の1シーンになればいっかなぁ~という具合で…
 そういうのを一緒に楽しみたいだけだったり…


 結局のところ、なにが言いたいのか?

 …さぁ、自分でもさっぱりです。

  • 2006年8月16日 19:13
  • 松田拓弥
  • Essay

戦争

 まるで意味がない。

 宗教問題とか、人種問題とかで、いろんなところで、いろんな戦争が起こってる。

 まるで目的もない。
 もしあったとしても、それが達成されたこともない。
 1つのそれがもし達成されたとしても、また別のそれが湧いて出てくる。

 キリスト教の歴史とか聖書がどうのこうのとか、人種に関する歴史とか運動とかその背景とか、そういう深い部分については学校の田植え授業で習ったぐらいしか知らないけども、でもそれからなぜ殺し合うことになるのか、まるで理解できない。

 お互いに、なぜ批判するの?

 認められないのは、どうして?

 全部は認められないかもしれないけど、尊重するぐらいはできそうなもんだ。
 人間なんだから。
 本能だけで生きてるんじゃない。頭で考えて、ワンクッション置いてから、行動に移すことができるはずだ。

 単なる表現の問題っていうこともあると思う。
「唯一全能の神」
 そんな表現を使うのは間違ってる。
 誰の心のなかにも“神様”っていうのは存在する。排他的な表現はダメだ。
 もし“全能”と呼びたいなら、 唯一の自分を守ってくださる全能の神”といったほうが、まだ認めてるっていう範囲内にあるんじゃないかと思う。
 神を信じてないわけじゃない。その存在を感じたこともある。でもそれは、自分のなかにしかなかった。感じられなかった。
 困ったときには、誰もが神にすがる。自分の手に負えなそうな問題にぶち当たったとき、俺も神にすがってみたことがあった。
 解決した。
 でもそれをなし得たのは、神が存在したからじゃなかった。やったのは、結局自分だったからだ。
 否定はしない。
 でも、肯定もしない。

 ただ、居てほしいなぁ~と思うぐらいだ。自分こそ、自分にとっての全能の神と言えないだろうか?
 自分のやりたいことも、自分の思うこと感じることも、全部においてコントロールできるのは、自分しかいない。
 自分のことは、なんでも手にとるようにわかるし、その手にとれるのだから。
 でも、俺のことなのに、俺よりも詳しい人を探すことに人生を費やしてもいる。
 それは、絶対に俺は1人だけじゃ生きていけないからだ。

 俺は弱い。
 俺も弱い。

 でも、きっともうなんだかんだと神様にすがる必要さえなくなってきてる、ただそれだけなんだとも思う。


 それにしても、きっとそんな戦争を起こしてるのは、どこの国でもたいていが“男”だと思うんだな…
 “女の人”は、きっとそんな公園の噴水みたいに血がふきだしてる光景なんて望んでないはずだ。心のなかでは、その他のいいところも悪いとこも受け止められてるはずだと思う。
 その他を批判するのも、けなすのも、そのほとんどが男だと思う。それで怒って戦争になり、けなしたやつを殺しに行く…それが戦争に発展するんじゃないかと思う。
 なんの知識もない俺が断言するのもおかしな話だけども、戦争ってきっともっとシンプルなもんだと思う。

 殺された→殺しに行く→殺された→殺す→絶対殺す→やっぱり殺す→いざ出陣

 あるいは、こうか。

 俺はこう思う→俺は違う考えだ→へぇ、でも俺はこうなんだ→いや、おまえが間違ってる→いや、おまえだ→いや、おまえだ→おまえが間違ってるんだ→いや、おまえだ

 お互いが“復讐”とか“絶対”っていう感情から抜け出せてないだけなんじゃないかと思うわけだ…
 人が大切に思ったり感じたりしてることを、たとえそれを自分が理解できないからって、批判とかけなしたりなんて絶対にダメだ。
 自分を卑下したからって、別の人も卑下していいってのもおかしい。
 人の心まで支配しようなんて、もってのほかだ。

 でも女の人は、そんな男の人を認めることができるだけの器があるんじゃないか?
 新しい生命を抱えて、なおかつ自分の生活も送れるだけの器が、生まれながらにして備わってるぐらいだから…
 それで自分の子供や家族に平和で安心できる生活が送れるという保証があるなら、わからない。
 でもほとんどが、家族や子供や、友人までもが危険にさらされてる。
 男は、自分が認められない、理解できないものがあれば、ただそれをつぶして、さらにはそれすら支配しようとする。んで、支配下になれば、そのいいところだけを吸収して、いらないものは全部切り捨て御免だ。
 かといって、男が劣ってるとも思わない。
 つまり、自分が理解できるものだけを、自分のまわりにはべらせておきたいってだけだ。

 “聖戦”なんて名のもとに、お互いが殺し合い、お互いの血を見て満足してるだけに過ぎない。あるいは、その人を自分が殺したことによって、その人の考え方とかまで殺したと思いこんでるだけだと思う。
 そんなに人の心を支配したいか?
 それは実際には、その戦争を起こしてる人が一番よくわかってるんじゃないかと思う。
 支配されたくないから、そうやって支配しようとする人間と戦ってるんだから。自分の大切な文化とか誇りを支配されたくないからだ。
 認めてほしい。
 尊重してほしい。
 それを望んでるのは、みんな同じことなんだから。

 本当に自分の名誉や誇り、そして何より自分の家族を守りたいなら、お互いを認めて、お互いに尊重し合うことだと、俺は思う。
 そやってそれらを築いて得てきたんだから。


 ただ、こうやって口で言うだけなら本当に簡単なことかもしれない。
 でもこれは、本当に1人1人の意識の問題だから、行動に移すより、壁とか運動とかみんな取っ払って、まずはそう思うことから始めるべきだと思う。法律でいくら決めたからって、個人個人がそれに気づいて認めなきゃ、なにも変わらない。

 戦争は、まるで意味がない。
 宗教でも人種でも、お互いのことを認めて、お互いのいいところを尊重し合えばいいだけの話だ。
 批判したり、けなしたり、つぶそうとしたり、それを支配しようとするから、戦争になって殺し合いになる。

 その人にとって、大切なものは、人それぞれにある。

 たとえば、何十年か前に発売された切手は、俺にとっては使えなければただのゴミなだけだけど、収集家にとっては貴重なものになるだろう。
 それと同じだ。
 でも、それをお互いに認めて尊重することができれば、全部とまではいかずとも、ほとんどがキレイな円のなかにおさまるんじゃないかと思う。
 その人が持ってる俺が欲しい何かと交換すればいい。それか、俺にとっては単なるゴミなんだから、その収集家さんにあげたらいい。


 戦争が一番の戦争なんじゃなくて、きっと、戦後が一番の戦争なんだと思う。それは、戦争を起こし、戦った人たちが一番よくわかってることじゃないか?
 自分の愛する家族を捨ててまで守るべき国ってあるんだろうか?
 愛する家族と過ごせるならば、きっとどこの国でも暮らせるだろう。
 敵は、的と違う。
 たとえ敵国の人たちでも、みんながみんな的じゃないだろう。
 血で血を争うことはない。
 民族の違いと言ったって、今はもうそんなことはどうでもいい。白人と黒人が同じグループ作って歌をうたえる時代だろう。
 軍事大国なんて1つもいらない。
 そんなアメリカから自分の国を“守る”ためのミサイルを作ってるだけだとしたら、どうする?
 同盟だの条約だの言ってるけど、結局なんのそれなんだかわかったもんじゃない。
 戦争だって、所詮は、資本主義の延長だろう?

 それがもし大切と感じる人がいるのなら、それを大切にしてくれる人に、渡せばいい。
 それがもしお互いに大切なものなら、そう感じる人がみんなで共有すればいい。

 意見なら、いくらでもしよう。
 いくら自分が、それを理解できなくとも。
 意見なら、いくらでも聞こう。
 いくらみんなが、それを認められなくとも。


 俺は戦争を知らないけども、でも、もう戦争はしないでほしいと心から望んでる。

  • 2006年8月10日 02:41
  • 松田拓弥
  • Essay

たった1度のため息を

 ため息って、どうしてあんなにも悲しいイメージを持ってしまうんだろう…

 退屈とか、幸せが逃げるとか…

 ため息ついたら、なんだかすごく気になるのは、どうしてだろう?

「どうしたの?」

「なんかあった?」

 こんな言葉が浮かんでくる。

 浮かんできては、消えてゆく。


 なにもない。

 あえて言うなら、時間が過ぎてくことがつらい。

 幸せな時にも、ため息1つ。

 ため息がクセになってる人もいる。

 幸せなんて逃げてかない。

 自分のその手でつかみとれ。

 逃げちゃう前に食べてしまえ。

 どしてもつらかったり悲しいときは、ため息じゃなくて泣いてしまえ。

 もしかしたらため息以上の幸せ食べれるかもしれない。

 素直になれるかもしれない。

 涙に濡れた純粋さがその手のひらに。

 ため息にも色がつけばいいのになぁ~…

  • 2006年8月 9日 01:04
  • 松田拓弥
  • Essay

いつもどおりが、はて?

 どうして人は、怒りの感情が胸のうちに押し寄せてくると、動きそのものが激しくなるのか??

 さあねぇ~……そんなの知らんよ。
 怒りの感情自体が、それだけ激しいものってことなんじゃないの?

 だがね…
 “愛情”っていうのも、それと同じ…いや、もっと激しいのか…感情の揺れなのに、とても静かで優雅で、まろやかな動きになってゆく。
 笑顔が増える。

 でも“涙”ってのは、どちらにも共通して増えるものかな…
 嬉しいときには涙が出るし、本気で怒ったときには泣く人も多い。
 “涙”ってのは、そうとう感情がたかぶらないと出てこないものだと思う。
 だから、俳優さんとか女優さんっていうのは、それだけ自分の感情を自分で意図的にコントロールできるってことなのだろうか…
 役になりきってるから、その役としての感情が涙を流すということにまでたかぶってるのだろうか…
 それとも、ただの小道具として使ってるだけなのだろうか…
 …それはもったいない…

 涙は、自分の感情が素直に現れる。

 悲しいとき…
 嬉しいとき…
 怒ったとき…
 楽しいとき…

 でも本当に悲しいときは、涙も出ないという…
 それって、感情自体がすっぽりと抜け落ちてしまうからじゃないかと思う。
 人の死がそうかもしれないけど、その人が死ぬことで、自分の一部も死んでしまうってことが、それなんじゃないか?


…メチャ愛する人、メチャ愛してる人、メチャ愛してた人、メチャ愛すべき人が死んでしまうってことは、その人に対して抱いていた感情も死んでしまうのと同じことなんじゃないか…


 時々、なんでもないなぜか涙があふれてくることがある。
 親友とギョーザを食べながら、なにげないさりげない会話をして笑ってるときにさえ、そういうことがある。
 でも、こんなこと…こんな感情が、俺が、俺で、俺の人生のなかで、俺が生きていく人生のなかで、一番大切なことなんじゃないかと感じるのは、そんなふとした瞬間だ。
 いつもとなんら変わらない日常が大切とは言い切れないけど、そういうありふれた日常が大切だとは思う。
 なんの刺激がないと、絶対に生きてることに飽きるときがくる。
 死にたいっていうんじゃなくて、ただ飽きるっていうときがくる。
 そんなときは、自分の大切な人と、そんなふうにいつもの景色のなかで冗談まじりにおしゃべりして楽しく過ごすといいのかもしれない。
 どんなに自分の人生に飽きてしまおうと、そこにはいつもの景色と、親友や恋人と、そんな光景に溶け込んでしまってる自分がいるのだから。
 そこから自分が抜けてしまうと、やっぱりそのいつもの景色も、親友や恋人も、いつものものでなくなってしまう。居心地悪い思いをしてしまうだろう。
 大切な人に、そんな思いはさせたくない。

 人が別れを嫌うのは、いつもの景色が変わってしまうから。
 いつもどおりの景色がないと、いつもどおりの自分じゃいられなくなるから。
 いつも一緒に座ってたソファの右側に、その分以上のぽっかり大きな隙間ができてしまうから。

 激しい感情の揺れをそんなに怖がるなら、小さな心の揺れを重ねてゆこう。


 愛情も怒りも、大きな感情の波に包まれるから、その動きも激しくなる。強くなる。深くなる。
 強く、深く、激しくなる…

  • 2006年8月 7日 04:45
  • 松田拓弥
  • Essay

必要よりも、不必要

 俺は、努力ってのが嫌いだ。
 むしろ、人聞きだけはものすごくいい努力なんて、ホントは必要ないと思う。

 親とかは、勉強を努力だと勘違いしてるみたいだ。んでもって、勉強は学生の仕事だなんぞ、あまりにバカげた解釈だ。じゃあ学校行って勉強したら、小遣いぐらいくれてもいい。そして、勉強を努力と呼ばないで欲しい。
 好きな教科だったりすれば、それは努力でもなんでもなく、限りなく【趣味】に近いと、俺は思う。
 嫌いな教科を勉強するのは、それは単なる【強制】でしかないのだから…

 俺は【倫理】という教科が好きだった。いっつもソレの資料集を読んでたような記憶しかない。
 この上なく楽しかった。勉強なんていう感覚もなく、努力してるなんてことも感じたことはなかった。ただただその、昔のいろんな人の思想や哲学が楽しかっただけだった。
 “あ、なんかおまえ、おれと似てんな”とか“あんた、すげぇな”とか……
 あとはまあ国語ぐらいなもので、読み物だけ読んでたっけか? 国語の資料集も読んだりしてたな…短歌とか俳句の、読んでくときのあのリズムが良かった。
 たまに古文の『変形』だけ読んでは、1人で笑ってたかもしれまいに…。

 いい大学に入るため、志望校に合格するため、親に褒められたいがために、仕方なく頭の片隅にガビョウでくっつけとくだけのものでしかなかった、それ以外の嫌いだった教科たち…あれなら別に先生なんていらない。
 教科書読みながら家でやって、わかんないとこがあったら職員室まで出かけてって「先生、コレわかんない」って訊けばいい。それでもわかんなかったら、最終手段として教科書の内容を全部丸暗記すればいいだけの話だ。教科書に全部書いてんだもの…
 まあ高校最後の年は、教科書のカネを、突如思いついてしまった友人たちとのピザパーティーに全部使ってしまって、教科書なしで過ごしたが、特に困ったという記憶もない。せいぜいテスト範囲のコピーが面倒だったというぐらいだった…
 んでね、《教科書ガイド》なる虎の巻をあとから別に販売するなら、最初っからそっちを売ればいいと思うんだが?
 よくよく見てみりゃ、先生たちもそれを使って授業をしてやがる。
 所詮、教育というやつもビジネスとしか見ていないということではなかろうか…今のこんな状況なら、諭吉もきっと千円札ぐらいの価値しかないのかな…


 学校で何を学んだか?

・点数の稼ぎ方
・目上の人との付き合い方
・人の使い方
・セックス
・我慢

 …あまりいいことがないので、もうやめる。
 成績は、その教科の先生と仲良くしてれば自然と上がってくもんだということは、学生生活のすべてを通してわかったこと。
 あとは、テストの点数次第だろうな…出席以外の義務さえこなしてれば、たいていは成績が良くなるんだもの。授業さえ出てりゃ、成績もよくなるなんていう教科もあった。
 学校のシステムのなかで一番便利な機能であり、ちょっと悲しいところ。

 人から教えられることじゃない。ましてや、押しつけられてやることなんかじゃ、決してない。そんなことはあってはならないと思う。
 勉強とは、自分で学ぶものなのだから。

 勉強はつまんない。
 確かに。
 でもそれは、それが嫌いなものっていうだけだ。
 嫌いなら、好きになればいい。好きなものなら、だれからも言われず頼まれもしてないのに、すすんで自分からやりはじめるもんだ。
 俺は、証明とかは好きな範囲内だったのだけども、どうしても算数ができない感じだったから、あるとき心のなかでは吐き気がするほど嫌いとしても「頭だけでも好きになればいい」と思いなおした。それでそれまでよりは、いくらかマシになった。
要は、考え方の切り替えってだけだった。数字なのに、それを文字として考えてたからだった。そうなる理由とか他のいろんなことまでとらえようとしてた…時には、その公式のレイアウトまで考えたことまであった。レイアウトがイマイチだと、何回もその公式をノートに書いてたこともあった…

 かといえば、たとえ好きな教科でも点数が悪いということはないだろうか?
 まず、ない…もしあるとすれば、技術のほうがついてこないってだけだと思う。せめて知識だけは豊富になるはず。
 その昔、『月刊バスケットボール』っていう雑誌があったときは、将来まるで役にも立たないし、さらには、ダニも寄りつかなそうなそのときしか自慢の種にならないような知識だけはすごかった。パッと見ただけで、そのバッシュの名前をフルネームで言えた。型番まで憶えてたっけな。
 あるいは、ホントは好きじゃないかのどれかだろうなぁ~…


 将来、カネが欲しけりゃ、自分の得意なものを伸ばすに限る。
 将来、楽しくいきたきゃ、自分の好きなものを吸収して精進するに限る。


 話を戻そう。
 俺は、努力が、大嫌い。
 というより、嫌いなものが嫌いってだけだ。
 好きなものをもっと吸収しようとか、もっとやってやろうとかいうのは、それが努力だなんてミジンコも感じてないからだ。
 今やる必要なんてないものが、俺の好きなものには多い。そのときは不必要なものが、俺にはそのとき必要だったりするわけだな…

 …そのときやるべきことは、そのあとで、やりたいときにやれたらいいなぁ~…

 そう思う…

  • 2006年8月 5日 02:57
  • 松田拓弥
  • Essay

自信

『自信とは、 “自分を信じる” と書く』


 自然な、ごく自然な自信を全身からオーラとしてかもし出してる人ってやつが、世の中にはおりますなぁ~?
 そういう人、カッコイイです。見てるだけでカッコイイです。むしろ、カッコイイんだろうなぁ~、とこっちが思わされてしまうほどにね。

 「自分を見つける旅」とか「自分探しの旅」とか「自分がわからない」とかいう人が大勢いました。

 さて、どうでしょう・・・・・・?

 そこにはきっと、“恐怖”というものが存在しているはず。
 で、もしソレがなかったら、あなたは今、何をしますか? 何がしたいですか?
 それを考えてください…


 さてさて、ひがんだり妬むということはいいことだと思うのですよぉ~。
 盗め盗め!!!! パクってしまいなさい!!!!
 他人にできて、自分にできないことはありません!!!!!
 ・・・・・・ってなことはありません。

 人間、不平等なんです。
 自分にできることを精一杯やればいいんです。今、自分にできること、それが最高なんです!!!!
 努力なんて、必要ないんですよねぇ~。

 というわけで、自然な自信を身につけてみませんか?
 ここらで一発、自分を信じてみませんか?

 わたしは、自信過剰ですがね。。。アハ、アハ、アハハハハ・・・・・・

  • 2006年8月 2日 07:01
  • 松田拓弥
  • Essay

豊かな

 どうも物質的に豊かになってくると、ヒトってやつは、それに完全に依存してしまうらしい…

 昔は、手書きだったものが、今では「ペーパーレス」という時代に猛烈な勢いで突入してるみたいでね…

 メールだと、味がなくなる。心なんてものは、これっぽっちも伝わってこない。
 伝票なら、ただボタン1つで全部勝手にお得意先もそうでない荷主も全部打ち込んでくれる。

 年賀状だって、全部同じ内容…ちょっと親しければ、あとから手書きで1行付け加えるぐらいなもの。

 今、全部手書きで小説とかの読み物書いてる人なんていないんじゃないかと思う…
    “執筆”
 そんな言葉は、もう辞書から削除すべき言葉と言えるかもしれない。
    “執打”
 ただ、こだわりというか、頑固というか、偏屈というか、伝統や文化を重んじる頑なな人は今なお、いくら時間がかかろうが添削が大変だろうと、手書きを貫いてることだろう。
 そんなもんだろう…でもただ聞こえが悪い。


 まあ例をあげればキリがないだろうが、こうして俺もパソコンの世話になってる…

 一番の理由としたら、まず間違いなく「ラクだから」だろうな…

 こういうホームページの作成だって、簡単に作れるソフトが続々と登場してる。そして、どんどん売れてる。
 ラクで、簡単にキレイなページが出来上がるからだろうな…
 でも、全部手書きで、全部自分で指定したもののほうが、自分にとってより質のいいホームページに仕上がるはずだと思うんだけどな…その“質”っていう意味合いも、多少ニュアンス的に違うもんだろうけど。

 正直、俺がここにたどり着いたのは、あくまでそっちが出来上がるまでの「足掛け」と言える。他もいろいろ見てみたけど、そのなかではココが一番ラクに出来そうだったっていうだけのこと…
 自分で一から作ってるほうが完成すれば、ココは削除する予定…好意でここを使わせてくれてる「○○」さんには失礼な話だけど、それがネットの世界なんだと俺は、変なところで割り切った考えがある…そんなふうにこのネットの世界と時代とを、頭のどこかで眺めてると思う。
 その渦中にありながら、360度眺めるだけの単なる傍観者だ。

 ホームページ簡単作成のソフトをいくつも買って試してみたけど、思ってたより広告の謳い文句よりもちょいとばかり難しいとか面倒だと、また違うのを買って試してみて、やっぱりダメだった…

 だから、そういうソフトは使えない?
 それは、単に自分がラクしたい、ラクになりたいってだけの愚痴に過ぎない。
 本当に自分のホームページが持ちたくて、さらにカッコよくて質もいいものを作りたいなら、ちゃんとそれ相応の知識とかも身につけて、実際にあれこれといろいろ試行錯誤しないと、無理な話なんじゃないかと思うわけ。
 世界中に、自分っていう個人からの情報を伝えるなんて、本来ならとんでもなく大規模な話なのに、それをお手ごろな値段で手に入るソフト1つで全部叶えようなんて都合が良すぎる。

 今じゃ、この“ホームページ”っていう単なるメモ帳も、世界に通用する情報伝達手段として立派な位置にあるし、それのプロっていう人もいるくらいなんだから。
 そういうソフトを使えば、かなり効率はいい。むしろそういったソフトは、使えるなら、どんどん使うべきだと俺も思う。
 でも、聞いてた話よりもちょっと難しいとか面倒だからといって、すぐに投げだすのはどうかと思う。
 それは、たとえば、いつもどおり棚の上に置いておいたはずの車の鍵が、スーツのポケットから出てきたときに「なんでこんなところにあるんだ? …そんなわけないだろう」と文句たれるのと大差ないと思う。
 そんなんじゃ趣味とも言えやしない。

 俺は最近、このホームページ作りも「1つの娯楽になってきてるかな」と考えるようになってきた。
 やっぱり楽しい。
 切り取ってきて貼り付けて出来上がったものじゃなくて、自分でいろいろ考えて試してみたりしながら、やっと出来上がったものを目にしたときは、どんなに不細工なものでも、きっと愛着が沸いてしまってけっこう自分で気に入ってしまうものなんじゃないか?
 自分で、自分のなにか1つを作り上げるっていう作業は、俺にとって何にも変えがたいほど楽しい作業ってだけなのかもしれないけど…

 豊かになればなるほど、ヒトは、それと同じく同じだけ乏しくなっていく。

 そんな気がした今日この頃のついさっき…どっちが“道具”かの区別がなくなる日は近い。


 自分の手だけじゃ、まっすぐな直線が引けないように…
 でもそれを人の味と呼ぶ人のほうが、今はまだ多いのがせめてもの救いか…

  • 2006年8月 1日 00:05
  • 松田拓弥
  • Essay

らしくない

 “自分らしさ”ってなんだろう?

 んなこと考えてみたところ…こんな結果が出た。

 “らしくない”なんて言われても、でも、そんなところも自分らしさと呼んでみよう。

  • 2006年7月29日 03:55
  • 松田拓弥
  • Essay

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