どうも物質的に豊かになってくると、ヒトってやつは、それに完全に依存してしまうらしい…
昔は、手書きだったものが、今では「ペーパーレス」という時代に猛烈な勢いで突入してるみたいでね…
メールだと、味がなくなる。心なんてものは、これっぽっちも伝わってこない。
伝票なら、ただボタン1つで全部勝手にお得意先もそうでない荷主も全部打ち込んでくれる。
年賀状だって、全部同じ内容…ちょっと親しければ、あとから手書きで1行付け加えるぐらいなもの。
今、全部手書きで小説とかの読み物書いてる人なんていないんじゃないかと思う…
“執筆”
そんな言葉は、もう辞書から削除すべき言葉と言えるかもしれない。
“執打”
ただ、こだわりというか、頑固というか、偏屈というか、伝統や文化を重んじる頑なな人は今なお、いくら時間がかかろうが添削が大変だろうと、手書きを貫いてることだろう。
そんなもんだろう…でもただ聞こえが悪い。
まあ例をあげればキリがないだろうが、こうして俺もパソコンの世話になってる…
一番の理由としたら、まず間違いなく「ラクだから」だろうな…
こういうホームページの作成だって、簡単に作れるソフトが続々と登場してる。そして、どんどん売れてる。
ラクで、簡単にキレイなページが出来上がるからだろうな…
でも、全部手書きで、全部自分で指定したもののほうが、自分にとってより質のいいホームページに仕上がるはずだと思うんだけどな…その“質”っていう意味合いも、多少ニュアンス的に違うもんだろうけど。
正直、俺がここにたどり着いたのは、あくまでそっちが出来上がるまでの「足掛け」と言える。他もいろいろ見てみたけど、そのなかではココが一番ラクに出来そうだったっていうだけのこと…
自分で一から作ってるほうが完成すれば、ココは削除する予定…好意でここを使わせてくれてる「○○」さんには失礼な話だけど、それがネットの世界なんだと俺は、変なところで割り切った考えがある…そんなふうにこのネットの世界と時代とを、頭のどこかで眺めてると思う。
その渦中にありながら、360度眺めるだけの単なる傍観者だ。
ホームページ簡単作成のソフトをいくつも買って試してみたけど、思ってたより広告の謳い文句よりもちょいとばかり難しいとか面倒だと、また違うのを買って試してみて、やっぱりダメだった…
だから、そういうソフトは使えない?
それは、単に自分がラクしたい、ラクになりたいってだけの愚痴に過ぎない。
本当に自分のホームページが持ちたくて、さらにカッコよくて質もいいものを作りたいなら、ちゃんとそれ相応の知識とかも身につけて、実際にあれこれといろいろ試行錯誤しないと、無理な話なんじゃないかと思うわけ。
世界中に、自分っていう個人からの情報を伝えるなんて、本来ならとんでもなく大規模な話なのに、それをお手ごろな値段で手に入るソフト1つで全部叶えようなんて都合が良すぎる。
今じゃ、この“ホームページ”っていう単なるメモ帳も、世界に通用する情報伝達手段として立派な位置にあるし、それのプロっていう人もいるくらいなんだから。
そういうソフトを使えば、かなり効率はいい。むしろそういったソフトは、使えるなら、どんどん使うべきだと俺も思う。
でも、聞いてた話よりもちょっと難しいとか面倒だからといって、すぐに投げだすのはどうかと思う。
それは、たとえば、いつもどおり棚の上に置いておいたはずの車の鍵が、スーツのポケットから出てきたときに「なんでこんなところにあるんだ? …そんなわけないだろう」と文句たれるのと大差ないと思う。
そんなんじゃ趣味とも言えやしない。
俺は最近、このホームページ作りも「1つの娯楽になってきてるかな」と考えるようになってきた。
やっぱり楽しい。
切り取ってきて貼り付けて出来上がったものじゃなくて、自分でいろいろ考えて試してみたりしながら、やっと出来上がったものを目にしたときは、どんなに不細工なものでも、きっと愛着が沸いてしまってけっこう自分で気に入ってしまうものなんじゃないか?
自分で、自分のなにか1つを作り上げるっていう作業は、俺にとって何にも変えがたいほど楽しい作業ってだけなのかもしれないけど…
豊かになればなるほど、ヒトは、それと同じく同じだけ乏しくなっていく。
そんな気がした今日この頃のついさっき…どっちが“道具”かの区別がなくなる日は近い。
自分の手だけじゃ、まっすぐな直線が引けないように…
でもそれを人の味と呼ぶ人のほうが、今はまだ多いのがせめてもの救いか…
- 2006年8月 1日 00:05
- Essay