どうして人は、怒りの感情が胸のうちに押し寄せてくると、動きそのものが激しくなるのか??
さあねぇ~……そんなの知らんよ。
怒りの感情自体が、それだけ激しいものってことなんじゃないの?
だがね…
“愛情”っていうのも、それと同じ…いや、もっと激しいのか…感情の揺れなのに、とても静かで優雅で、まろやかな動きになってゆく。
笑顔が増える。
でも“涙”ってのは、どちらにも共通して増えるものかな…
嬉しいときには涙が出るし、本気で怒ったときには泣く人も多い。
“涙”ってのは、そうとう感情がたかぶらないと出てこないものだと思う。
だから、俳優さんとか女優さんっていうのは、それだけ自分の感情を自分で意図的にコントロールできるってことなのだろうか…
役になりきってるから、その役としての感情が涙を流すということにまでたかぶってるのだろうか…
それとも、ただの小道具として使ってるだけなのだろうか…
…それはもったいない…
涙は、自分の感情が素直に現れる。
悲しいとき…
嬉しいとき…
怒ったとき…
楽しいとき…
でも本当に悲しいときは、涙も出ないという…
それって、感情自体がすっぽりと抜け落ちてしまうからじゃないかと思う。
人の死がそうかもしれないけど、その人が死ぬことで、自分の一部も死んでしまうってことが、それなんじゃないか?
…メチャ愛する人、メチャ愛してる人、メチャ愛してた人、メチャ愛すべき人が死んでしまうってことは、その人に対して抱いていた感情も死んでしまうのと同じことなんじゃないか…
時々、なんでもないなぜか涙があふれてくることがある。
親友とギョーザを食べながら、なにげないさりげない会話をして笑ってるときにさえ、そういうことがある。
でも、こんなこと…こんな感情が、俺が、俺で、俺の人生のなかで、俺が生きていく人生のなかで、一番大切なことなんじゃないかと感じるのは、そんなふとした瞬間だ。
いつもとなんら変わらない日常が大切とは言い切れないけど、そういうありふれた日常が大切だとは思う。
なんの刺激がないと、絶対に生きてることに飽きるときがくる。
死にたいっていうんじゃなくて、ただ飽きるっていうときがくる。
そんなときは、自分の大切な人と、そんなふうにいつもの景色のなかで冗談まじりにおしゃべりして楽しく過ごすといいのかもしれない。
どんなに自分の人生に飽きてしまおうと、そこにはいつもの景色と、親友や恋人と、そんな光景に溶け込んでしまってる自分がいるのだから。
そこから自分が抜けてしまうと、やっぱりそのいつもの景色も、親友や恋人も、いつものものでなくなってしまう。居心地悪い思いをしてしまうだろう。
大切な人に、そんな思いはさせたくない。
人が別れを嫌うのは、いつもの景色が変わってしまうから。
いつもどおりの景色がないと、いつもどおりの自分じゃいられなくなるから。
いつも一緒に座ってたソファの右側に、その分以上のぽっかり大きな隙間ができてしまうから。
激しい感情の揺れをそんなに怖がるなら、小さな心の揺れを重ねてゆこう。
愛情も怒りも、大きな感情の波に包まれるから、その動きも激しくなる。強くなる。深くなる。
強く、深く、激しくなる…
- 2006年8月 7日 04:45
- Essay
ランキング参加中なので。
単語連鎖
- あとがき : たった1度のため息を
- まえがき : 必要よりも、不必要