「がんばれ」って万能だと思ってた。
万人に通用する励ましの言葉だと思ってた。
でも“鬱”の人には、それは言っちゃいけない言葉だと知った。
なんでかはわからない。
鬱の人がいる。そして、そう言ったことがある。
でもその人は、僕に「ありがとう」と言ってくれた。そして「がんばる」とも言ってくれた。
笑ってくれた。
なんでかはわからない。
なにも知らない僕に、ムリしてくれたのかもしれない。
僕はなんもわかってないんだろうか。わかろうともしてないんだろうか。
その人からたくさんの話を聞いて、僕は僕なりにわかったつもりでいた。
わかったつもりになってるだけなんだろうか。
そして出た言葉が「がんばれ」だった。だから「ありがとう」だったのだろうか。
なにをがんばったらいいのかわからない。
がんばる理由がわからない。
がんばったその先、なにになるのかわらかない。
がんばったら、なにがいいんだろう。
“がんばる”って、なんだろう??
ものすごく曖昧だ。
だからこそ、その人が今がんばってることがあるとき、そのことについての励みになる。
別になんもがんばってなくても、なんとなくそんな気になる。そんな、なにもない自分が勇気づけられるのかもしれない。
“鬱という診断を受けたら、少し気持ちが楽になった”
その言葉を聞いたとき、ひどく疑問に感じた。だけど、なんとなくわかるような気もした。
要は、気の持ちようなんだ。
とりあえず病気ではないけれど、手元に薬があると安心する。そんなところと同じだろう。
でも、なにもかもが受け入れられなくなると、自分すらなにがなんだかわからなくなってしまうんだろう。
それによって、そういう状態の自分をまず受け入れることができるようになったんだろう。
たったひと言“鬱”って言葉で。
僕は“鬱”っていう状態じゃない。診断も受けてない。
だからなにもわからない。自分が経験してないことは、どうあがこうと、完全にはわかるもんじゃないだろう。勉強だってしてないし、専門のお医者さんにどう対応したらいいか聞いたこともない。
でも、わかろうとしてないんじゃない。
わかりたい。
僕の「がんばれ」が、みんなの「がんばれ」が、いつか絶対言っちゃいけない言葉じゃなくなるように。
「もうほっといて」と突然言われた。
ほっとけないんだよ。
「もう生きててもしょうがない」とまでポツリと言った。
でも、いつもそうかって言ったら、そういうわけじゃない。
なにかのスイッチが入ったみたいに、なんの前触れもなく突然だったりする。
そう言われたら、そうするのがその人にとっては一番良かったのかもしれない。死んでしまえば、だれも知らないんだから、本当に楽になれるのかもしれない。そう、誰も知らない意味で。
でも、ほっとけないんだ。
こういうお節介が一番の迷惑なのかもしれないけれど、そういう人たちを、そういう人たちもいるっていうことをただ、簡単に無視しないでほしいだけなんだ。
その一方で、わがままや好きなことだけやってるっていうのが許されるってことに疑問も感じる。
もしかしたら、それさえ苦痛とか意味がないとか思っててやってるのかもしれないけど、程度が違うっていうだけで、楽しそうに会話することもあるから。
でも、そのおかげでっていうのはおかしいかもしれないけど、それによって嫌いなことを放棄できたり、自分のわがままを人に聞かせるだけの強制力が与えられたような状態には、怒りさえ感じる。
自分は病気なんだからって、人の気持ちにも我が物顔だ。
基準がすべて自分だけになってる。医者でもない。友達でもない。親でもない。
それこそが、なにもわかってない証拠なのかもしれない。
でも、単なる甘えだったり、正式な名前がついたかどうかの差にしか思えないときがあるのも事実。
その人にも気持ちがある。
人それぞれにそれは違う。
みんなと同じっていうのが受け入れられなくなったんだろうけど、やっぱりみんなと同じで安心するんだ。
なにを求めてるかって、みんなであり、そんなみんなのなかにいる自分なんだ。
それは痛いくらい伝わってくるんだけど、その自分自身がそれを見失ってんだ。
だから、サジを投げたくなる気持ちもわからなくはない。
どうしたらいいかわからないんじゃない。
自分がどれだけ心配しても、なんの解決にもならないんじゃないか。薬やなんかじゃなきゃ、助けてもやれないし、なんにもならないんじゃないか。なにもしてやれない自分への不甲斐なさ、無力さ。そして、それを嘆いたところでなにも変わらないし、わからないこと。それすら無視されてしまうということ。わかろうとしても、それすらムダに思えてしまう。
それがきっとうちの親父だったんだろう。
それだったらそれがわかる人、自分はそれ以外の、自分にできることでがんばろうって……そやって親父はがんばろうとしたんだろう。
自分は見えなくなってもいい。見えるようになったとき、いつでも帰ってこれるようにって。自分は自分でやれることをやっていこうって。
……なんか泣けてくる。
そのときのおれは気づけてやれなかった。その気持ち。
すごい優しさだ。
今がんばれることがないんなら、がんばれることが見つかるように、今からがんばればいい。
なんのためにがんばるのかがわからないなら、わかるまでがんばってみればいい。
がんばった先になにがあるのかは、がんばってみなきゃわからない。
いいか悪いかは、きっとあとでわかること。良かったと思えたら、またがんばればいい。ダメだったら、もう二度と同じことを繰り返さなければいいだけのこと。
がんばることを答えだと思わないで。
こういうことを書いてること自体、もしかしたら“鬱”っていう状態をわかってないのかもしれない。
だけど、僕は「がんばれ」と言い続けたい。
がんばれるのは自分しかいない。きっと誰も好きでなったわけじゃないんだから。
「がんばれ」って言葉を受け入れられた日もあったんじゃないかと思う。
そして、そうやって笑い合えた日が。
僕は思う。
でも僕には「がんばれ」としか言えないだけで、それに頼ってるだけなのかもと……
やっぱり、安易になんの用意もなく、簡単に口にしちゃいけない言葉なのかな。「がんばれ」なんて不用意すぎるのかな。
マジメにいろんなこと考えたりやってきた人が鬱になるんだって聞いた。
もしかしたら「がんばれ」っていう言葉が一番不器用なのかもしれない。
でもやっぱり僕は、その人とまた、笑い合って話したい。
それだけだ。
でもやっぱり、その人だけじゃない。
「がんばれ」
みんなとまた一緒に笑い合おう。
- 2006年9月17日 00:27
- Essay