言葉の重みは変わらない。
誰に言われた言葉なのか??
そのとき、その前、自分はどんな気持ちだったか??
そこらへんにかかってくる。
それが言葉の重みになってみたりするんじゃないか……
突然、胸にグッとくる言葉が降りかかる。
それは全然、なんでもない言葉だったりする。
愛を叫ぶわけじゃなく、夢や希望を掲げて見せてくれるわけでもない。
でもなんでだ??
不意だったから??
わからない。
だからそのへんにかかってくるんだと思ってみたり……
言葉よりモノってこともある。
「お腹はすくかもしれないけど、あきらめないでがんばって生きてね」
そんなあしたの見えたような言葉より、たぶん金だ。米だ。たとえ賞味期限が切れていようが、コンビニのおにぎりだろう。
あすへとつながる励ましよりも、あしたも実際にそこにいれること。
普通に生活してれば、そんな特別っぽく見えてしまう状況なんてあり得ない。
あしたは見えてる。
だから毎日を“繰り返し”だとか“退屈”だとか感じてしまう。
でもそれはきっと、そういう“普通の暮らし”ってのができてるからなんだろう。
誰もが“あしたは誰にもわからない”とかって希望を見つけようとしながらも、どこかで必ずあしたが見えてしまっている。
物質的にもそれなりに満ち足りている。
不幸ではない。
だから目には見えない“言葉”っていうものにさえ重みを欲しがってしまうんじゃないか??
考えるとき、それは言葉なしにはムリだと思う。
ただぼんやりと考えてるってのは、きっとなんとなく感じたり思ったりしてるとき。
考えるのと感じるのでは違うとか思ってみたり……
言い方とか呼び方なんて、どうでもいいさ。
愛も恋も、きっと一緒だ。
好きって気持ちに変わりはない。
頭のなかにあることと、こうやって文章にして書いてみるのとでは、どうもどっかで食い違いがあったりする。
言葉にして、自分の言葉で表現するとなると、途端に自分自身の気持ちでさえも、それが難しく見えてしまう。自分のことじゃないような、他人事みたいな見え方がする。
そんなときがある。
たとえば、「愛してる」と言われたとき。
<嬉しい>と感じながら、<ホントにこのまま鵜呑みに信じちゃってもいいんだろうか??>なんて疑ってしまったり。
「愛してる」と言ったとき。
<愛してる>とそのまま心のなかで叫びながらも、どこかじゃ<白々しい>とそんな自分を小バカにするような視線があったり。
でもあえて言うなら、考えるのは“頭”であって、感じたり思ったりするのは“心”であれと願うばかりで……
そして、こうして自分の言葉を表現するのは、“心のままに”と信じてみる。
“純粋”って何だろう??
あっ、なんか結論が先に来た!!
“自分を何より信じてあげること”らしい。
だからって頑固とは違う。
自分の間違いに気づいて、また自分が正しいと思ったほうにいくのだって、自分の信じた方向ってことだから。
でもやっぱり、それはかなり難しいわけで……
でもきっと、それは誰もがやってるわけで……
だから今の自分ってやつがあるわけで……
弱さだとか悲しみだとか、そういうものにやられてるとき、やっぱり人の優しさや、ただその存在にすがってしまいたくなるもので……
そういうときにくれた優しい言葉は、絶大なる威力があって、ついつい流されてしまったりする。
でもそれは悪いことじゃないと思うわけだ。
もしそれが自分にとって間違っていたとしても、自分が求めていた答えじゃなかったとしても、それはいくらでもあとから気づける。
そして、いつでも軌道修正できるもんだ。
遅すぎたなんてことはない。
“でも、どうにもならないこともあるんだよ”って、優しく諭してくれる人もいる。
でも、そこから今の自分にできる最善と思えたことをやってみたらいいじゃないか。
弱さや悲しさ、切ないときは、流されてしまっていいじゃない。
強いだけが求める答えじゃないんだから。
泣かない強さに負けるより、泣ける弱さを知ればいい。
なにが悪くて、なにがイイか。
なにを信じたらいいのかも、わからなくなる。
自分の気持ちの整理ができない。その証明もできないでいる。
でもそういうのって、きっとあとからわかることだから。
なんだろう……
よくわかんないけど、すごくイイ。
こうやって言葉にしてみると、書きながら考えてたり、感じたりしてる。
で、その重みを一番感じるのは、結局自分なんだろうな。
きっと。
今気づいたことは、こうやっていろんなことを考えたり感じたり、いろんな経験を重ねながら、どんどん人って“純粋”っていうところに近づいていくんじゃないかな。
なんか変かもしれないけれど、それが“プライド”っていうやつなのかも。
子供はきっとその“原石”で、大人になってくのとともに、その人っていうのが輝きを増していくんじゃないのかな。
- 2006年9月 2日 00:34
- Essay