"Essay" にまつわる文章のリスト

Color's

 好きな色は、白と黒。

 白は、色じゃないから。
 黒は、そういう色だから。


 なんかかんやとイジッてると、結局どうしても “白黒” ってとこに行き着いてしまう…

「色がなくて美しいものは、色をつける必要がない。色があって美しいものは、色を消しても美しい。」

 画像とか写真をイジッてると、いつの間にか白黒調での良さをはかってしまう…
 どうしても “白黒” ってのが一番カッコよく見えてしまう。
 それはなぜかはわからない…

 色鮮やかなモノは、どうも苦手らしい。昔っからそうだったかもしれまいに…
 単なるセンスのなさかもしれないけど、いつも葬式みたいな格好をしてたような気がしないでもない。
 色味のあるものでも、たいていはくすんだ色とか、ちょっと暗い色とか明るい色とかで、原色のものを持ったためしがない。
 原色が苦手だ。

 新聞って、だからそれだけで絵になるんじゃないかと思う。
 日本の新聞は見てたってデザイン性も感じないし、なんのおもしろみもないけれど、英字の新聞は、それだけでも壁紙にできそうだし、カッコイイ雰囲気が出てる。

 白も黒も、色でも光でも、どっちかがどっちもが、その極みだからなんじゃないかと思う…
 ほかの色があれば、白も色になる。黒は、どこにあっても色になる。
 極端だ。
 黒と紺って、どうもダメだ…微妙に違う色を重ねるってのは、どうもその違和感も微妙になって、ちょっと好きくない。そこが重なることによって、よりその違和感だけが強調されるだけのような印象。

 白黒って、色鮮やかなものよりも、けっこう強烈なインパクトを与えてくれるのかもしれない。そのなかのワンポイントなら、もっとドデカいインパクトがある。
 不思議と “強さ” みたいなものを感じる。そして、それとは逆に “優しさ” みたいなものも感じる。
 だからかな…白黒って、なんとなくイイ。

 だけど、モノクロ映画は観たくない…気味悪い。
 もしかしたら、フルカラーよりのそれよりも、人のしぐさや表情がはっきりとそこに出てしまうからかもしれない。

 モノクロの静けさが好きで、だからこそそこに激しい “動” を感じたりもする。

 でもこれって、きっと万人に共通なんじゃないかと思うのだ。
 そして万国共通。
 たぶんデザインとかやってる人なら、ほんの少しぐらいは理解してくれるかと思うけど、いや、共感してくれると嬉しいっていうほうが正しいかな。
 なにかのデザインでモノクロにするって、最終手段であり、きっと、常套手段でもあると思うわけだ。
 だからデッサン。とにかくデッサン。
 デッサンできなきゃ絵なんて描けないだろうし、でも、たぶん究極的な絵もまたデッサンだと思う。
 で、その切り替えって、デザインの勉強をして知識によるものだったり、構図が云々とかいうことじゃなくて、ちょっとそれらしい言葉を使うと、たぶん“心の声”とかそういうことなんじゃないかなぁ~と思う。

 もしかすっと、だれもが心のなかに“自分の”色っていうのを持っていて、それが消されることによって、しかも自分じゃない他人にだ。それで、心がひどく悲しむんじゃないかなと。
 きっと人が、無条件でそこに吸い込まれていくのって、悲しみとか空虚な感じだと思うわけ。
 同情だろうが偽善だろうが、なんでもいい。ここじゃそんなケチな口実はケチなまんまだ。
 浮かれちゃないけど、どっかふわふわしてるときって、なんだろう…すごく簡単なことだったり、すっごく些細なことにも、実はすっごい敏感に反応していて、それと同じぐらい簡単に、そこに同調したり共感したりしやすい。
 ってことはなんだ?
 僕は、常に僕の心が悲しんでるってことになるのか?
 いや、むしろ僕の心にはそもそも、その色ってやつがないのか?
 だから常にそれを求めてる?
 いや、逆に、色ありすぎ?
 だからほかのそれは余計と映る色は排除したがるのか?
 いや、そうすることによって、自分の色を消したがってる?
 なんか価値基準はホント自分だけって感じだな。

 まったく、自分で書いておきながらビビんぜ、まったく。

  • 2006年6月 3日 23:09
  • 松田拓弥
  • Essay

くもりのサングラス

 色メガネをつけてると、その色がすべてのものにかかってくる。
 そしてそれは、自分にしか見えない世界になる。ほかの人からすれば、そのサングラスを通して見る僕の瞳ぐらいしかわからない。
 ちょっと孤独に似てる。ものすごく慢性的でだけど。
 なにもしてない人とはきっとまるで景色が違う。
 サングラスをはずしてみたとき、初めて気づいたことがあった。
 世界はこんなにも明るかった。
 コンビニや街では光が絶えない場所だけれど、あれはちょっとまぶしすぎるんだ。

 いつも絶えず光を放ちつづけるところには、虫が寄る。
 蛾や蚊や、小さな羽虫。
 けれど害虫と呼ぶのは、きっと人間だけだろう。
 人間にとって、害か無害か有益か、それが常に基準になる。
 基準になれば、それ以外は、もうそれ以上でもそれ以下でもなくなってしまう。

 こうやって屁理屈ばかりこねていると、イヤな部分や汚いところだけしか見えてこなくなってしまう。
 人間の醜さやむごさ、残忍さや乏しさ、不完全さばかりが目につくようになる。もともとが色褪せて見えてるからか。
 色鮮やかな花を見たら、その色彩への感動は、きっと半減どころじゃないと思う。かといって、モノクロの写真を見ても、若干、いや、むしろイイ感じなセピア色に見えるわけだ。
 ものすごく中途半端だろうと思う。
 ひょっとすると、それこそそれ以上でもそれ以下でもなくなってるんじゃないか。

 けれど、その裏側の部分にも顔を向けるようにもなる。
 不完全さや未完成の裏にある、完全。
 常にそれを求めてる。
 そればっかりは飽きることがないらしい。

 不思議なものだと思う。
 不完全だから、完全を求められる。もし自分が完全だとしても、それにまた不満を覚え、さらに上へとのぼってゆく。
 人間は欲張りだ。
 でも欲張りだから進化がある。発展がある。展開が広がる。
 完全な人間なんていない。
 でも、不完全な人間なんてのもいないのかもしれない。

  • 2006年6月 2日 22:49
  • 松田拓弥
  • Essay

たまご

 始まりがなければ、終わりも来ず。

 終わりがなければ、始まりもない。

 いつの間にかの始まりも、終わるときには時間がある。

 終わりには、いつの間にかなんてあり得ない。

 いつの間にか終わるときには、いつもなにかが消えている。

 始めることが怖いのは、終わりが来るのを知ってるから。

 終わりのないものなんて、まず、ない。

 終わるために始めたものなんてのも同じぐらいないけれど。

 でも、終わらないように続けていく努力なら、誰にでもできる。

 手遅れだなんて思わないで。

 今からだって遅くはない。

 なんだって。

  • 2006年6月 2日 06:24
  • 松田拓弥
  • Essay

My Bible, #C

 すべては自分のなかにある。


 花がある。
 キレイな花が咲いている。
 キレイに花が咲いている。
 そう、そこには花が咲いている。

 子供と目が合う。
 そのお母さんとも目が合った。
 そのお父さんとも目が合った。
 そう、そこには1つの家族がある。

 小さなネズミが走っていく。
 口には小さなパンのかけらをくわえてる。
 小さなネズミが走っていく。
 そう、そこにはもっと小さなネズミがいる。

 胸の前で強く両手を組む。
 今は閉じた目のむこう側に像がある。
 きっと隣にも同じ姿勢の人がいる。
 そう、そこには人がいる。

 命がある。
 絆がある。
 愛がある。
 光がある。

 目に見えるものと、見えないもの。
 花は見えても、命は見えない。
 家族は見えても、絆は見えない。
 ネズミは見えても、愛は見えない。
 像は見えても、光は見えない。

 自分のなかには、なにがある?
 自分のなかには、自分がある。
 すべてがある。
 自分の目に見えるもの。
 自分の目でも見えないもの。
 だけどそこには、しっかりとある。

 たとえキレイな花と、キレイに磨き上げられた石で作られた教会でも、そこには神はいない。ましてや、それが神でもない。みなに愛される神父は、みなに愛される神父。神じゃない。聖書が神ってわけでもない。
 たとえ自分が書いた本だとしても、それが自分ってわけじゃない。自分が書いた手紙でさえ、あくまでそれは手紙に過ぎない。
 すべては自分のなかにある。

 手に取って触れることのできないものは、自分がそれを信じる以外に術はない。

 たとえすでに枯れていても、そこには深い命がある。
 たとえその手をつないでなくても、そこには強い絆がある。
 たとえ途中で少し食べてしまっても、そこには大きな愛がある。
 たとえその手がクロスしてなくても、そこには交わる光がある。

 命は見えない。
 絆は見えない。
 愛は見えない。
 光は見えない。
 そして、その理由も見えてはこない。

 どれもすべてを信じるしかない。
 自分はそれを信じることしかできない。
 たとえそれが見えなくとも、それにこの手が触れることはできなくとも。
 自分はそれを信じることしかできないでいる。
 でも、それで充分だと思う。
 信じることができなくれば、そのどれもを1度に失うことになる。

 信じていれば、生きていける。
 信じていれば、その手をつなげる。
 信じていれば、与え受け取ることができる。
 信じていれば、祈ることができる。
 信じていれば、わかることもある。

【そのとき、初めてわかることもある】


 すべては自分のなかにある。


 そう、すべては自分のなかにある。

  • 2006年5月29日 02:27
  • 松田拓弥
  • Essay

長靴

「ホントおまえって、人の心に平気で土足でズカズカ入ってくタイプだよな、ホント」


 考えた。
 考えさせられた。
 なんかちょっとだけ悩んだかもしれない。
 ……でも、たいして深くじゃなかった。


 たまたま出向いた先で、たまたま高校のときのヤツに会った。
 挨拶だけして去ろうとの予定が、近くにあった店に入ることになっていた。そいつと一緒にいた女の子は帰っていった。ちょっと離れたところで傍観者に成り果てていた彼女は、最初は「は?」って顔をしてたけど、すぐにそいつの肩越しからこちらを覗きこむと、ケータイを確認してから、なぜだか納得したようにクルリと背を向けて歩いて行った。


 そいつとはあんまり話したことはなかった。たまたま同じクラスになって席が隣になって、それから話すようになって、でも卒業するまでにはどちらからも話すことはなくなってた。
 でも、そんなそいつが話すことは、そんなに軽いことじゃなかったらしい…でも、そんなものなのかもしれないとも思う。
 ただ、そう言われた。

「ホントおまえって、人の心に平気で土足でズカズカ入ってくタイプだよな、ホント」

 そしてそいつは、なんか曖昧にへらへらしてコーヒーをひと口飲んだ。
 聞いてすぐは最初と最後に“ホント”を2回も繰り返すほどのことなんだな、と俺は思っただけだった。
 でもその次の瞬間…いや、それと同時に“は?”と感じた。さっき外でこいつと一緒にいた女の子が去り際にこいつに向けたあの表情が、今度は俺の心のなかに浮かんだ。
「は?」
「いや、そうだよ、ホント」
 そいつはコーヒーカップを持つ手の指にタバコを挟めてその中身をすすりながら、今度はこちらを探るような目で見てきた。それは、なんとなく癪に障る目つきだった。
 俺もタバコを1本抜き取った。
 そいつが火をつけてくれた。こういうヤツだ。

 こいつとはほとんど想い出ってものがない。話したのは誰よりも多かったけど、こいつとどこかへ行って楽しかったとか一緒に何かをやったとかいうことはない。
 人と話したこと、会話の内容はほとんど憶えてる。本当にしょうもないことも、今までの誰かと話したっていうその内容の記憶はほとんど憶えてる。なぜか、こればっかりはいつまで経っても忘れないらしい。
 誰かに昔の会話のことで「憶えてる?」って訊かれて、「え、そんなこと言ったっけ?」ってのが、俺にはほとんどない。なんとなくでも破片でも一応は憶えてることが多い。人が忘れてることを、いつまでも憶えてることのほうが多い。でも俺からそうやって確認することはしない。その人が忘れてしまってるってことは、その人にとってはたいして必要でも大切でもなかったってことだと思ってしまう。


 そいつは“おまえの影響、けっこうデカかったな”と俺に言った。

 そいつが言いたいのは、どうやらそれらしかった。
 俺にはそんな憶えなんてない。名言を吐いたこともないし、大舞台に立ったこともないし、俺の考え方とかを書いた作文をあげた憶えもない。
 こいつとの会話だって話したそのまんまの内容しかなかった。
「あっ、あいつ…どうよ?」
「お目が高い…いい背中のラインだ」
 なのに、そいつは言う。
 さらにはこうも断言してみせた。
「もしおまえに会ってなかったら、今、俺、違うね、絶対」
「まあ、それが良くても悪くても、おれのせいにはしないでもらいたいね」
 そいつはそれを鼻で笑った。そしてタバコを消してコーヒーを飲んだ。
 ちょっとムカついた。

「そういうヤツって、ほかにもいっぱいいんじゃん」
 ”人の心に平気で土足でズカズカ入ってくタイプ”
「でもおまえって、なんとなく違うんだよねぇ~、なんかこう…」
 タバコ吸いすぎ。
「…踏みにじってくんじゃなくて、踏みならしてくっていうか…畑で言えば、耕して踏み固めてくっていうか…んまあ、なんかうまく言えんけど、そんな感じ。わかる?」
「んまあ、なんとなく」
「んじゃまあ、そんな感じ」
 悪い気はしない沈黙だった。そいつもそんな感じだったように見えた。
「でも、それからなんだよね、おまえのダメなとこ…いや、間違いかな?」
「やっぱ耕すにはスニーカーより長靴のほうがいい?」
「なんかうまいけど、ちょっとズレてる…それに、おまえの場合、きっと裸足。でも、礼儀正しく革靴とかよりはずっとイイんじゃないの?」
 ちょっとの間。
「んで、おまえの間違いってさ、人の畑耕してある程度踏み固めるまで手伝ってやって、それまではいいんだけど、あとはもうほったらかしでいつの間にか勝手にどっか消えてくの…まあ自分じゃ気づいてないんだろうけどね」
 そいつはタバコを消した。なんか映画みたいなタイミングのよさだった。
「そんなの、自分の畑なんだから自分で好きな種埋めりゃいいじゃん。トマト食いたきゃ、トマトの育てりゃいいんだし」
「それはおまえだろ? …ってか、それなんだよねぇ~ホント」
「なにが?」
「なにがって…なんかさぁ~、種でも苗でも田植えでも何でもいいけどさぁ、実際そこまで一緒にやったらさぁ、それからまだ手伝ってほしいことってあんじゃん。たまぁ~にでもさぁ…どうよ?」
「…おれは肉体労働ってのが嫌いな質でね」
「おまえって土もけっこう選ぶからな…もっと質悪い」
「職人ですから」
「また笑いに持ってくなっつの」
 でもそいつは、今でもそういうのが好きらしかった。
「手伝ってほしかったら呼べばいいだけじゃん」
「それができたらおれだって、今でもまだおまえのケータイの番号ぐらい知ってる仲でいられたと思うけどね」
「ああ、おまえ…おれのせいにしないでもらいたいね」
「いや、こればっかりはマジで言わせてもらうけどねぇ…去ってくときのおまえって、なに言ってもムダって感じのオーラだしてんのよ…ってかおまえって、なんか勝手に決めつけてない?」
 そしてさらに、こう付け加えた。
「いろんなこと」

 結局、そいつとどれだけの時間いたか…挨拶だけしてさっさと消える予定が、実に2時間も同じテーブルに座ってコーヒーをおごってもらっていた。別れ際、そいつと一緒にいた女の子に申し訳ないことをしたと感じた。自分でもわかるかわからないかぐらい、ほんのちょっとだけ。


 たしかに、それはある。
 自分のなかにある、自分のなかだけの基準で、いろんなことを勝手に決めつけてしまってるかもしれない。それがたとえ、ヒトのことでさえも。
 自分の役割みたいなのを勝手に自分で設定して、それを終えたら自分から、自分で自分にも気づかれないように離れていってるのかもしれない。
 そいつの言うとおり、離れていったのは俺のほうかもしれない。もしかしたら、逃げたのかもしれない。
 それが何かはわからないけど、なにかを怖がってるのかもしれない。
 それも自分の、自分のなかだけに見つけた勝手な恐怖なんだと思う。

 俺は簡単に影響される。影響を受けやすい。
 歌でもなんでもそうだ。ちょっと小耳に挟んだりすれば、そのあと1日中そればっかり口ずさんだりする。本を読めば、そのなかの言葉を四六時中頭のなかでこねてみたり、映画を見れば自分がヒーローになった気分で素敵なヒロインをカワイイ、カワイイと頭のなかに描きつづける。
 でも、風が吹いてそれに乗って流されるんじゃなくて、そこに立つか座るかして、その風を受け止めるだけでいる。
 きっとそうだ。
 そして、体のどこかにできた隙間から抜けていく風はそのままで、どこかに残ってるものだけをつかまえてる。
 きっとそれだけだ。
 いつも自分の位置が決まってる。そして、そこから動かない。いや、動けないでいるんだと思う。
 勝手に自分の“範囲”みたいなものまで決めつけてしまってるんだと思う。
 自分のなかでの配置にしがみついて、必死になってる。
 きっと、俺の世界は狭い。
 でも世界は、もっともっと広い。

「おまえと関わった人って、イイ感じに付き合えてる人も多いと思うけど、けっこう傷ついた人も多いんじゃないの? 実際」
 これは自分じゃわからない。
「もしいたら、きっとかなり深いね」
 これも自分じゃわからない。
 でも、当たってる部分は大きいと思う。
 でもやっぱり、こればっかりは自分自身じゃわからない…いや、きっと俺はなにもわかってない。


 帰るとき、俺はそいつにケータイの番号を教えようとした。
 でもそいつは断った。
 やっぱり俺は、なにもわかってないんだと思った。

  • 2006年5月21日 22:09
  • 松田拓弥
  • Essay

 親は、子供のために。

 子供は、自分のために。


 子供がおもちゃを選ぶように、親は、そのおもちゃを選んで買ってくる。
 選んで買ったおもちゃでも、子供は飽きても新しいものがやって来るまでは、それで遊ぶしかない。
 親もきっとそれは同じだろう。
 おもちゃを選ぶようには、親も子供も選べない。

 ケンカしかしない親なら、いっそ居てくれないほうがいい。
 “子供が大きくなるまで、別れる気はない”
 逆にそれは、それからの自分を想像できないだけだと思う。
 ホントに子供のためと思うなら、そのまま別れたほうがいい。仲の悪い親ほどイヤな親はいない。そんな親はいらない。そんな親なら、親じゃない。三流映画に出てくる三流役者と変わらない。
 自分がその“親”っていうやつを演じたいだけなんだよ。しかも、“いい親”っていうほうだ。
 泣こうが怒ろうが怒鳴ろうがわめこうが、親どうしの仲がよければ、きっと子供は我慢できる。殴られて出て行っても、きっとまた戻る。そんな気がする。
 両親のケンカを見物するための観客として生まれてきたわけじゃない。
 きっと、そんなことのために生んだわけでもないだろうさ。

 争えない血をもらっても、いらないものなら捨てられる。

 親子関係ってのは、カネで買えるおもちゃじゃない。

 親の気持ちはわからない。

 でも俺がもしも親なら、【反面教師】なんて言われたくない。

  • 2006年5月16日 01:03
  • 松田拓弥
  • Essay

大きな木の下から

 最近、寝不足が過ぎるようだ…

 ふたたび血尿の嵐が訪れる…

 まあ他の病気を煩いはじめたのかとも思ったりもしたが、そんなことはどうでもいいのだな…

 学びたいときは全力で学ぶのみ。
 遊びたいときは全力で遊ぶのみ。
 眠るときは、がっつり眠るのみ。
 働くときは手抜きせずに全力でぶつかるのみ。

 失敗も多い。
 涙の跡は、なんとか笑顔でごまかして、人生の苦い汁は外にぶちまけることなかれ。
 それはまるで青汁のごとし…美味くはないけど、体にはいいらしい…きっと丈夫な体を作ってくれるさ。
 強くなれる。

 歌いたいときは、全力で歌うのみ。
 踊りたいときは、全力で踊るのみ。
 考えるときは、全力をだして集中して考えるのみ。
 観る、聴く、嗅ぐ、触れる、しゃべる、感じる、なんとなく。
 愛するときは、出し惜しみせずすべてを委ねてみたいから…

 欲張りになることもある。
 あれもこれもと、いろんなものに手を伸ばす。
 だけど、どれも中途半端で、姿が見えるだけで、触れることができずにいた。
 でも、伸ばしたその腕を引っ込めることなかれ。
 目覚めても忘れない夢を、その胸に秘めているのなら…

 人は、人として、人のために、人らしく生きていきたいと願う。
 たとえ、この大木の下で疲れ果てようとも、きっと少しの休憩なら、まわりだってそんなに変わってない。
 そこには、ほんのちょっとの休憩をとってる“自分”という存在が、1人不足してるのだから…
 自分にはそんな価値はないと感じてしまう日も、きっとあるだろう。
 違う。
 でも、それは違う。
 “自分”こそが、その“価値”なのだから。
 そんな価値はないなんて思わないで。
 そんなふうに感じないで。

 その大木の下に伸びる木陰の居心地がいいのなら、自分の好きな歌でも口ずさんでいたらいいんだ。
 きっとそこから見えるまわりの景色も、ほんの少し休憩をとるはずだから。


 人は、人として、人のために、人らしく生きていく。

  • 2006年5月10日 19:51
  • 松田拓弥
  • Essay

誰かの歌と、自分の在り方

「自分がちっぽけに思えて…」
「この空に涙を流したあの日の悲しみも小さく思えた…」
 かなりあるね!!
「誰にでも明日はくる…ちっぽけなこんな自分さえも受け入れてくれる、デッカい朝陽とともに昇る明日という朝が…」

 反吐が出らぁ~!!
 『勇気系』の歌にさ!! しかし、今なお根強い人気がありますなぁ~…。

 “ちっぽけ” なんかじゃねぇ~ぜ!!
 自分!!!!
 そうやっていろんなこと感じたり、思ったり、時に悩んだり、泣いたり…
 あの日の悲しみはちっちゃい?
 違うね!!
 デッカいんだ!!
 胸いっぱい悲しんで、頭がいっぱいっぱいになるまで思い悩んで、それのどこがちっさいってんでぃ!!
 それは、そんな “自分” にしかないものなんだから…

「…あの日の悲しみが今小さく見えたのは、あの日から自分がほんの少し大きくなれたから…」

 …自分って存在はデカいんです。
 まあまあ、ミュージシャンたちや作詞家さんたちもそれを伝えたいのかもしれないが、俺はあえて、こっちをもっと言葉にして伝えたい!!
 人間の存在は小さいかもしれない……そうかもしれない。
 でもね、そのなかにある気持ちってのは、何よりデッケ~んだよな……

 それをだね、食べ物がない人とか、病気の人とかと比べて、自分はまだ幸せなんだって感じるほうが、失礼ってなもんじゃねぇか?
 気休めにもなりゃしない。
 その人たちだって好きでそうなったんじゃないかもしれないけども、やっぱり結局は自分次第なんだと思う。むしろ、自分がそうやって生まれ持ったものにくよくよしてる人のほうが少ないんじゃない?
 親の代からそういう暮らしをしてたって、「こんな暮らしなんてもううんざり」とかつぶやきながら、ゴミ箱漁ってちゃ~、世話ないしな。

 好きでなったわけじゃないなら、好きなことやってみりゃいい!!
 本当にどうしょもない時は、仲間がいる!!
 頼り頼られること、人間としてあたり前のことなんだから!!
「困ったときだけ頼ってきやがって…」
 こんなことグチグチ言ってるやつこそ、器がちっちゃいってなもんだ!!

 自分をちっぽけだなんて、たとえ太陽が昇らなくなったって思うなァ~!!!!
 そんな歌詞がまだ出てないなら、俺様が作ってみんなに手渡して握手会でも何でもしたるっちゅーねん!!
 ただしその会場は、うちの前です…しかも夜中にですが…

  • 2006年5月 7日 10:47
  • 松田拓弥
  • Essay

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