"Essay" にまつわる文章のリスト

みずのいろ。

 ただ川が流れてく。
 せせらぎ。
 草花。
 時に穏やかに、そして時には激しく。
 揺れて、揺れて、揺れながら。


 水のように生きていきたい。
 道ができれば、そのすべてを流れていき、道なければそれを作る。
 細くても、太くても。


 そしてやがては空へ消え、いつか大地に雨を降らす。
 それは時に悪魔と呼ばれ、ある季節にはそれ以外の何ものでもなく、ただの水。
 しかし、またある場所では恵みと呼ばれ、多くの人を笑顔にし、救い、微笑みを取り戻す。


 人間は、ひと雫。


 きっと美しいだけじゃない。
 かといって辛いだけのことでもない。
 平等でもなければ、不平等でもない。


 悪いことのあとには、必ずいいことがやってくるとも限らない。
 悪いことが続くことだってある。
 でも、いいこともあった。
 日々のなかで色褪せてしまいがちな、忘れかけてた笑顔。


 水の色は、水だけの色じゃない。
 そんなことはわかってても、本当は知らないことがあまりに多すぎて、ついつい自分の知ってることだけでいろんなことを知ったつもりになってしまう。


 僕って雫は今、どれだけの雫を映せてるんだろう。

親友という存在の距離

 とはいえ、“友達”ってやつのとらえ方だって、人によっていろいろなんだろうなとも思ってる。

 なんでも気兼ねなく話せて、なんら気を遣わなくてもいい相手。
 いつもそばにいてくれる人。
 笑い合える仲間。
 つらいことも笑い飛ばせてしまえそうな関係。


 最近思ったのさ。


 ひと口に“親友”って言ったって、そんなもんは自分のなかのとらえ方1つがすべてじゃんて。
 でも、みんながみんなそうじゃない。
 それもまた自分のなかのある基準のもとに、そういう抽斗にしまってんのかなと。
 そうじゃなきゃ、そう呼べる人と、そうじゃない人との違いがない。
 じゃあ、そのときの気分次第で友達の区別もなくなるのかって言ったら、そうでもない。
 もともと友達に区別なんてしてないって言ってしまえば、それはそれでカッコいいだろうと思う。
 でもやっぱり、人間だからな。したくないことでも、やっぱし差別化はしてしまう。というより、したいんだろうと思う。


 人間だれしも、自分のなかに不可侵な領域ってのを抱えてると思う。
 それはきっと絶対的で、他人には踏み入り得ない場所。


 自分のなかの、自分だけの“特別”が欲しいんだと思う。


 で、おれがふと感じたのは、先に結論。指定代名詞とかもそのままだ。


 その距離ってやつをお互いがわかった上で、その一定の距離を保ちながら、常にいる存在。

 さて検証してみよう。


 “友達”ってひと言だ。
 じゃあ、“親友”もひと言だ。
 でも、自分のなかや人のなかに浸透していく響きは、全然違う。

 さっきも書いたけど、人それぞれにあるのが友達だと思う。
 でも“親友”ってのは、きっと、なんとなくでも誰にとってもある程度の重みは伝わるんじゃないかな。意味とか細かいとらえ方は別にして。


 なんでも話せるのが親友じゃない。
 なんも気ぃ遣わなくていいのが親友でもない。

 親友だから話せないこと、話さないことってある。
 親友だから働いてしまう気遣いだってある。
 親友だからこそ踏み込めないところがある。


 だからって“友達”っていう響きや意味や存在が、かるいってわけじゃないんだな。
 逆に友達から話せないことがあり、気遣いもあり、距離をおく場合もある。

 でもそれは、きっと理解だとかお互いがとかじゃなくて、自分からそうしてるんじゃないかなと思うのよ。
 自分がもうこれ以上は踏み込まれたくないって思った時点で、相手にもそうする。気を遣われたら気を遣ってしまう。
 でも、知りたいと思ったことは知ろうとするだろうし、自分がしたいことは相手のことお構いなしでするんじゃないかと思うし、できるんだと思う。
 まあ、乱暴な言い方をしてしまえば、それって自分自身への気遣いだと思うわけよ。


 そのへんで、感じ入ることの多い親友っていうのは、きっと“お互い”っていうのがキーなんだろうと思う。
 すべてが感覚で、なんとなく感じてることなのかもしれないけど、お互いに居心地のいい距離っていうのを保ったままでいけるんじゃないかと思うわけ。
 “保てる”って言ってもいい。
 だから簡単には崩れないんだろうし、そういう友達というか関係の人が自分にもいるっていう人じゃないと、その関係を理解できないんだろうなと。

 まあ、恋人にしてもそうだけど、その関係は簡単に崩れるし、崩せる。しかも、時にはものすごい些細なことで。そのくせ修復するのはかなりムズい。
 友達やってたやつとも、すぐに疎遠になれるし、なったところで特になんら気にもならなかったりする。
 それはきっと、そこに欲があるからなんだろうな。
 恋人ならそれ以上が常に欲しいだろうし、友達なら、変にもっと仲良くなれるかもとか目指してたり、どこまで気が合うのか無意識に試してたり、ついには飽きがきたりするんだろう。

 なもんだから、常に自分自身との関係なんだと思う。
 それを崩すも崩さないも、自分次第。
 我慢できなくなれば壊せばいいし、忍耐できるまでは我慢しようとか感じるんじゃないかな。
 距離というか、そういう欲というか、自分自身というか、そういう要素もろもろが複雑に一定でいられないんじゃないかなと。

 かといってバランス保てとかそういうことでなく、自然とそういうふうになってしまう危うさと背中合わせってのか?
 ちょっと自分のほうがテンション高いかなって感じてしまえば、相手にもそれと同じものか、それ以上を期待したり望んだりしてしまう。疎遠になったかなって感じれば、それは相手のほうが離れてったとか、自分の不安を人のせいにしてしまったり、つい共感や理解ってやつを押しつけてしまう。

 本当に相手のことを大切に思えば、あえてをそれを壊そうとは思わないと思うわけ。
 まあ、“壊してまでの想い”とあらば、それはそれで素敵ではあるけども、その情熱に乾杯ってだけだ。それで嬉しいのもいっときかな。
 やっぱ人の大切さって決してそうではないと思うわけ。それもまた自分であって、きっとお互いではないと思うわけ。結果的にいいことになったとしても、ほかの部分でなにかしらの不具合が出てくるんじゃないかなと。
 相手のなにかを壊してまで、自分との距離を縮めようとする。自分のなにかを壊すために、相手への理解を深める。
 簡単かつシンプルに、そして乱暴なリアルさをもって言ってしまえば、“捨て駒”かな。


 親友って、きっと、いいところはもちろんだけど、相手のヤな部分も見えてるんじゃないかなと思う。
 “ごちそうさま”って引かれるぐらい褒めることもできれば、逆に、“そんなに嫌い?”っていうぐらいのものすごい些細な悪口まで言えると思う。賞賛も批判も、人一倍の知識でできるはず。
 でも、そういうのも全部ひっくるめてなのか、そういう部分はお互いの距離の外に置いておけるぐらいの親密さなのか。
 ただただ“受け入れられる存在”っつーのかなぁ~。

 これ不思議なもんで、いったんその人のことを“親友”って口にしただけでも、自分のなかで全然違う。
 その人のなんかが、自分のなかにスーッと染み込んでく感じ。「親友」って言葉を吐き出したにも関わらず、空気っぽくもあり、水っぽいなんかが、自分のなかで満たされてく気がする。
 わりと、言葉にして外に出せるって、思いのほかすげぇことだと思うのよ。


 ただ、“空気みたいな存在”ってのとは、また別だと思う。
 きっと、いてもいなくてもいいんじゃないか。

 どんなに暇なときでも必要じゃない。連絡しようとかも特に思わない。
 でも、いるんだよな。


 そこが、おれの一番感じるところ。そのへんの友達とか、そう簡単に見つかる存在じゃないっていう部分。


 いなくてもなんら支障はないけど、いる存在。もうこの際“ある”って言ったほうがしっくりくるか。
 モノとかいうとらえ方じゃなく、人とかいうことでもなく、存在っていう感じ方。

 もう信仰に近いか。
 信じる信じないもその人の自由で、それを信じたからって、これといったご利益があるわけでもない。
 でも、なんとなく精神的にというか、心がというか、自分自身がより豊かになったような気がする感じ。


 きっと、どんなにつらいことを話したり経験したところで、一緒に泣いてほしいとか共感してほしいとかいう期待はしないし、望んでもいない。理解してくれとも押しつけないだろう。
 むしろ、もしそういう経験を共有したんなら、そのときはきっと、あとで一緒に笑うんだろうなとすら思える。


 迫らず、離れず、強要せず。

 絶対的ではない安心と距離を、人にしてはきっと、ものすごく難しいそういう距離を保てる距離。

 どっちかが近づきすぎれば、自然と離れ、遠くへ行きすぎれば、また戻ってくる。
 かといって、ありがちな比喩表現“漣”みたいな打ちっぱなしじゃなく、きっとそういう自然のなにかでたとえられない人工的な自然さ。
 どっちかがそれをうまく調整するんじゃなくて、どちらともなく調整しつつ、距離を保つ。
 やじろべえ。
 あっちに傾きすぎれば、多少強引にでも力で引っ張るだろうし、こっちに傾きすぎれば、目一杯突き放しもするだろう。
 そのへんの調整ができないで親友って呼び合ってても、きっとそのうち簡単に崩れる日がくると思う。というより、崩れたときに修復がきかなくなるだろうな。
 さらには、そんな修復が必要になるぐらいの状態になること自体、それまでって気さえする。
 “ケンカするほど仲がいい”のは、友達だ。

 もしかすると、“親友”って呼び合えるのは、ずっとあとになってからなのかもしれない。
 “あ、親友じゃね?”みたいな。
 それまでに何かしらの理由で壊れてしまえば、そんなのは親友じゃなかったって気がする。きっと理由が必要になるのは違う。


 なにかお互いの感覚的なものいろいろがうまいこと絡み合って、それでいて感覚的になにかとうまくいくのが親友なのかな。
 なにをするにも度が過ぎない。もしあるとすれば、お互いがお互いに気持ちよくバカになれるときとか。
 崩れない距離。壊れない加減。
 きっとそれが親友であるための、いや、“ための”ってのは違うな。
 それが親友であるお互いの支点かなと……

 ほらきた。

 “支点”

 いいねぇ、きたねぇ、これ。
 かなりしっくりきた。


 だからいつも、なんとなくいつの間にかそこへ戻っていってしまうんだろうなと思うのよ。
 で、そのとき“そういうときだけ連絡してきて”っていう言葉が出ないのが、きっと親友なのかなってな。
 


 まあ、それはただ単におれにとって居心地のいい関係とか距離っていうだけかもしれんな。
 “親友に言葉はいらぬ”なんていう歴史があるのに、感情論と頭でこんなこといちいち考えくさって親友面してられんのかな。頭で考えて出てくる親友っていうものに、どれだけの価値があんのかね、まったく。


 たぶん、親友にもいろいろあるんだろうけど、きっとそうなるのって一瞬なんだろうな。
 時間をかけてゆっくり熟成させた絆ってよりは、そう感じたあとで熟成させてく深さなんだろう。
 恋愛と同じで、きっとその場で親友って感じた瞬間から、もうその人とは親友なんだと思う。
 だから親友ってのもきっと、親友は親友であり、それ以上でもそれ以下でもない。

 きっと、大なり小なりお互いのあいだに核となる何かがあって、それをお互いが、お互いの距離で共有しながら、あるんだろうなと。
 そのくせ、親友なんて、あってないようなもんだ。そこに固執するもんでもねぇ。
 核さえあれば、分裂はいくらでもできる。それらすべてがその核から生まれ出でた新たな核だ。


 ああ、やべぇ……


 キタ。


 親友とは、“友情フレックス”也。

  • 2007年3月23日 01:54
  • 松田拓弥
  • Essay

いつまでも愛しい。

 世の中には、人に元気をあげれる人がいる。

 でも、そういう人に出会うたび、思ってしまう。

 その人は、誰から元気をもらってるんだろうって。

 だから、そういう人はそれが自分の元気なんだって思ってくれてればいいな。

 その人の元気がなくならないように。

  • 2007年2月 1日 02:02
  • 松田拓弥
  • Essay

優しい人たち。

 おれみたいなのは、優しい人に住みついてしまう。

 だから、おれのまわりには、本当に優しい人しかいない。

 みんな、ホントに、優しい。

 優しい人の心は、本当に居心地がいいんだ。

 それじゃ、おれ自身がダメになるってわかってるけど、優しい人の差し伸べてくれる手は、本当に優しいんだ。

 嬉しんだ。

 みんな、本当に優しい人たちばかりだ。

  • 2007年1月 9日 22:16
  • 松田拓弥
  • Essay

感情と言葉

 感情はすべて並列である。
 ただ、それを表現する言葉が直列なだけである。

 By 俺様。

  • 2006年11月29日 00:09
  • 松田拓弥
  • Essay

その先

 人生、敗けてなんぼ。

  • 2006年11月15日 18:29
  • 松田拓弥
  • Essay

君の分

たまたまつけたテレビから
聞きたくもない愚痴やニュースが
不意に耳に入ってきたり
1日寝ても昨日を見てるようで
そんな日々に嫌気がさしたり
なんか気分が乗らなかったり
気持ちが萎えちゃってるなんて
そんなときもきっとあるよね

ふらっと入ったデパートじゃ
欲しいものが見つからなかったり
買えないものが並んでいたりして
わけもなく取り残された気持ちになるけど

「いいよ、だいじょうぶ」

なにもかもを一人で全部しょいこまないで
不安や迷いに押しつぶされそうになってしまったときは
毎日僕に電話しておいで

どうしても君がつらいときは僕が君の分もがんばるから
どうしても君が淋しいときは僕が笑顔にしてみせる

そのままの気持ちを伝えてほしい
無理なんかしないでさ
ありのままを伝えてほしい
泣き疲れたままでいい
傷だらけの胸も瞳もなにも隠さず
涙を流しながらその腕で
僕にしがみついて
なにも言わずグチャグチャんなって泣けばいいよ
僕が君を一人にはさせないから


なんだか急にいつもどおりじゃなくなって
なんもかもがイヤんなったり
拒んだり悩んだり叫んだり
素直な気持ちを吐き出せなくて
ホントの気持ちに負けてしまいそうになる

歩き疲れたときは僕に寄りかかっていればいい
僕は負けないから
君の分まで強くなるから

なにを失くしてしまったのかも見失ってしまってるときは
もう僕だけ見てればそれでいいよ
僕のなかの君の姿まで見失ってしまわないように

どうしても君がつらいときは僕が君の分もがんばるから
どうしても君が淋しいときは僕が笑顔にしてみせる

  • 2006年10月26日 00:36
  • 松田拓弥
  • Essay

名のある存在

 人って、自分を知りすぎると、最終的には死んでしまうのかなとか最近思った。

 “自分探しの旅”とかってよく聞く言葉だけど、それって、僕は思う。

 それまで築いてきた自分っていうのを、いっときでもいい、一瞬でもいいから忘れてしまいときの気持ちなんだって。

 旅好きの人ほど、変化っていうのを求めてるのかなとか。

 人生って、愛とかなんとか、最愛の人、伴侶、あるいは“失った自分の半分”なんて表現もあるけど、そういうのを探すんじゃなくて、すごくありきたりだけど、ホントの自分っていうか、ただの自分、ただ“純粋な自分”っていうのを探してく自分のなかに積み重ねてく時間の軌跡なんじゃないかな。
 それこそ、今の僕が考えられるホントシンプルな表現だと、自分自身の生と死の狭間 ── 他人うんぬんじゃなくて。
 そんななかに最愛の人だとか運命だとか、友達だとか恋人だとかとの出逢いがあったり別れがあったりして、きれいな表現はいくらでもできるっていうだけのことなんじゃないかなと思った。

 どんなに自分のことをよく知ってるって言ってみたところで、やっぱり今の時点では、自分の死だけは知りえない。

 詳しいことはわからんけど、仏教では究極の悟りは“無”らしいし、キリスト教とかでは、きっと自己犠牲なんだろうと思う。
 それってやっぱり、どう転んでも人にも手を差し伸べられる自我っていうものだと思うから、自分のすべてを知るときっていうのは、つまり自分が死ぬってことなのかなって。


 不思議なことに、旅に行けばいろんな人と出逢える。
 触れ合うとか話すっていうことは別にして、たとえチラ見だけだったとしても、きっとそれは出逢いって呼べることもあったりする。
 いろんな人、たくさんの人と出会うことで、これまた不思議なことに、自分っていうのがどんどんすり減っていってるような気持ちになってくる。
 感化されてるわけじゃなくて、その人を真似たりするわけでもなくて。
 影響を少なからず受ける。
 だから、それまでの自分っていうのが、ほんの少しだけ、その人の部分と重なってしまったりするんだろうな。
 それで、その見えなくなった部分の自分が、消えてしまったような気になるんじゃないかな。
 でも消えてるはずもなくて、重なったっていうだけのことで。


 自分っていうのを考えて見つめなおしたとき、どんなに小さくてなにもできない無力な存在かっていうのを思い知らされる。
 なんの影響力もなくて、泣いてたって誰も助けちゃくれなくて、一人で苦しんでたって、それは結局自分には悪あがきにしか思えなかったり。
 どんなに声を嗄らして叫んだって、世の中はなにも変わっちゃくれない。

 不思議だよ。
 どんなに苦しくても生きてられる。死にたいなんて感じなくなった。
 たとえ一瞬でも笑えるんだから。
 心からなんて笑えなくたってよくなった。
 笑顔ができるだけで幸せなんだよ。
 僕の顔も、僕の心も、気持ちも頭も、手も胸も足も、笑顔を忘れちゃいない。
 絆なんて呼べなくたって、そこにはきっとそれじゃない何か、きっと涙が自然とあふれてくるような何かが、あるんだから。
 だから思いきり泣ける。
 我慢なんてしなくなった。
 泣きたいときに泣くようになった。
 そしてそれを人に伝えられるようになった。
 「なんか泣けてきた」って。
 不思議だよ。
 なんもないのに気持ちが突然開けた感じだ ── ホント、開けた。
 そんな感じ。

 あまりに自分っていうのを知らなすぎた。
 知ったような気持ちでいつも大きなことを言っていた。
 自然なんてありはしないなんて、どこかでいつも自分自身を否定していた。
 どれもこれも自分が作りだしたフリなんだって、どこかでいつも常に自分は偽りのなかでしか生きられないとか、なんか映画みたいなことで上辺だけを繕っていた。
 嘘だ。
 嘘しかない。
 自分自身を模索して、手探りのなかで、上辺だけをモミクチャになるほど搾りとって、結局最後だけを見ようとしてた。
 でも違う。
 なにからなにまで知ろうとしても、これから先に起こること、そのとき感じる僕の気持ち、そしてそのとき関わった人の気持ちは、まだ今の僕には知りえないんだって。
 そんなこと今さら気づいてしまった。
 なんか今までの僕には、ちょっとそういうのが難しすぎたのかもしれない。
 “できない”とか“わからない”とか“知らない”っていうのがただイヤだから。
 なにからなにまで今知りたくて。
 まだまだ人生捨てたもんじゃないよ。
 “未来はある”って、きっとそういうことなんだな。
 ひさびさにいろんなこと考えながら感じながら書いてみると、全然書けないなんてことはない。

 なんだろう。
 他人は他人、自分は自分なんて、なんかすごい大人みたいでカッコよくてクールなんだけど、なんかそういうのが少しずつ消えてきた。
 人のことも自分のことのように感じられるようになってきた。
 痛いことも嬉しいことも。
 なんだろう。
 感じようとか感じたいって思うようになってきたのかな。

 誰かが僕の名前を呼んでくれるように、僕もその人の名前を呼ぶ。
 すごく簡単だって思ってたけど、実はすごく難しいことだった。
 人の名前が呼べないって、なんかすごく悲しかった。
 呼べる名前がないって、なんかすごく淋しかった。
 なんか、死んだ人の名前ばかり憶えてくんだ。
 “今、生きてる人はどこいったんだ?”って。

 きっと自分が死ぬときは、きっと、きっと自分っていう存在がいかに大きかったのかを思い知ることができるのかなって。

 って、なんかこれも期待かな。

  • 2006年10月17日 06:19
  • 松田拓弥
  • Essay

» 全リストを見る »

Search
Feeds
ランキング
人気ブログランキング

人気ブログランキング

にほんブログ村
ブログランキング・にほんブログ村へ

にほんブログ村

BlogPeople

BlogPeople:自分/自分のこと

BlogPeople:人間・哲学/人間考察

BlogPeople:芸術・文学/小説家予備軍

Creative Commons License

Creative Commons License

Creative Commons

トップへ戻る