2006年6月の文章リスト

“ 2006年6月 ” 分の文。

tears of happiness

見慣れた景色をかきわけながら
いつもの座り慣れた隣の席で
なにげない会話のなかを泳ぎながら
なんでもないのに笑い合えた

なにもおもしろいこと言ってないし
もちろんなにかが変でもない
ただ調子を合わせただけでも
胸の奥から笑顔があふれだしてくるような
木漏れ日でもなく小春にそよぐ風でもなく
聞き慣れた声やありふれた言葉
何度も何度も繰り返されていくなかで
見つけたんだ ふとした幸せ
どうやってそれを表現したらいいかのがわからなくて
ただそれに慣れてないだけ
いつまで経っても慣れないもの
通り慣れたなかにあるもの
そんなに大きなものじゃない
思い切りは泣けないけれど
きっと隣に座っていれば気づけるもの

  • 2006年6月30日 18:44
  • 松田拓弥
  • Poetry

 自分の姿を、逆さまに映しだしてくれる鏡には、不思議な力を感じる。
 …自分だけじゃなく、もっと他の、いろんなものをも映しているような気がする…
 でも自分では、その「逆さまに映った姿」が、自分の知る自分の姿だったりする。自分の目で、自分を観察することは難しい。
 その目で観察できるのは、自分の中身にしか向けられない。

 他人から見た自分の姿が鏡に映しだされる。
 自分の目で見れる自分の姿は、他人には見えない。

 出かけるときに鏡で身だしなみのチェックをするのは、そのせいかと思った。
 もし、もう一人の自分がいて、そいつが正面に立ってこっちを見たとしても、それもまた他人が見てる自分の姿を眺めてるに過ぎない。視点はそれと同じで変わらない。

 【鏡とは、何か?】
 【自分じゃないものを映すもの…そう、自分以外】

 自分じゃなきゃ気づかないことがある。自分じゃなきゃ気づけないことがある。
 他人じゃなきゃ気づかないこともある。他人じゃなきゃ見えないこともある。

 どっちも知りたいなら、鏡に自分の姿を映してみる。
 そこにいるのが【ヒトから見た自分の姿】で、それを見てるのが、【自分から見た自分の姿】だ。


 ところで、【結婚】について。
 夫婦は、お互いがお互いに似てくるというが、それでも他人には変わりない。
 あくまで「似てる」ってだけで、「同じ」じゃない。

 それで、【離婚】について。
 性格の不一致、性の不一致、すれ違い、孤独。自分を一人の人間として、女として、男として、そういう目で見てくれない。認めてくれない。出逢ったころは…

 当然だ。
 そんなこと言ってて、どうやってうまくいくのか?
 全部が一致するなら、もう「同一人物」に等しい。
 【不一致】とは、【同じじゃない】から起こる。
 それ以前に、【女】と【男】なのね。
 違う。合わないとかじゃなくて、違う。
 結婚したら、きっと男より女の人のほうが苦労する。笑わなくなるのは、きっと男より女の人のほうだ。
 女の人は、笑ってなくても笑える。
 そして、常に変化や刺激を求めてるのも両方でありながら、男も女も結局は【安定】の淵をさまよってる。

 こんなことってないか…?
 どこにも行くところがない。時間を持て余してる。
 とりあえず車に乗ってみた。
 気づくとそこは、いつもの行き慣れた、特になんの魅力もないただ行き慣れてるというだけの喫茶店。
 変化や刺激を求めるのは人の本能であり、変化や刺激を拒むのもまた人の本能だと思う。
 けれどそこに手厳しいメスを入れるのは、女の人だけ…
 それは、感覚が鋭すぎるからだ。安定と安心と、それとは相反する刺激や変化も同時に欲しがるからだ。
 男がそれをしないのは、結局最後の最後に戻れる場所が欲しいからだ。というより、それはそれで安心してるからだ。
 この“それはそれで”ってのがミソだな。
 でもこれは、きっと女の人もそうなんだろうと思う。
 で、お互いにそれをしないのは、ただ単に面倒なだけだろう。


 さて、鏡に映ったものを眺めてるとき、俺はいつも思うことがある。
<…俺以外のものになってみたい…>
 右上に映ってる洗濯物でもいいし、歯ブラシでもいい。ギターでも、ピアノでも、背後を通り過ぎた友達でも、手鏡のなかを通過していった赤の他人でもいい。何でもいい。
 生の自分の姿を、鏡以外のところから見てみたいと思う。そして、触れてみたい。自分が自分を触るんじゃなくて、他のものの感覚で触れてみたい。
 自分じゃ気づけない自分に触れてみたい…

  • 2006年6月30日 13:13
  • 松田拓弥
  • Essay

潮垂る

 枯れ果てた黄砂のような頬を風にさらす老婆

 風は冷たくその跡さえも残してはいない

 ベンチに座り大きな荷物を背負っている

 それはただ目に映るだけのものだった


 潮に濡れた脚だけ

 涙に沈んだ服の袖

 命を含んだ光の朝露

 闇に濡れた時間の影


 老婆は少し時間を置いて立ち上がった

 曲がった背にまた大きな荷物を背負って

 微笑みさえも悲しく映る

 潮垂るる色褪せた白い袖

  • 2006年6月30日 08:44
  • 松田拓弥
  • Essay

hemi sync

ヘミ・シンク
hemi sync

O(H)OMS

  • 2006年6月30日 00:08
  • 松田拓弥
  • Diary

中古

 人はきっと、アリンコよりもせっせと働く。そして我先にと死んでいく…
 時の流れは早いもの。でも死ぬまでは長くとも、死んでからはさらに長い。
 死んだことはないけれど、まだ生きてる人の心のなかには残ってるだろうから。
 生きておるのがツライなら、もっともっと生きるべし。


 「答え」ばかりを知っていても、なにも実を結ぶことなし。
 「疑問」をたくさん抱えることで、初めていろんな答えの花が咲く。咲き誇る。
 俺は誇る。
 俺の疑問の数々を…
 そして、あなたに…
 咲き誇る。
 恋の疑問と答えの桜が咲き乱れる…やがて散っても、疲れ果てることもなく、また咲き、散っては返り咲く。
 たとえ散るのが悲しくとも、また咲くことを知っていれば、また静かに雨が降る。その奥に秘められた、また光を浴びたいと強く願う、小さな小さな心の種に…

 人は恋をしては大きくなり、恋を重ねて成長し、恋と離れて自分を知る。そしてまた人は恋をして、さらに大きな自分と出逢う。

 …新しい人との出逢いは、新しい自分との出逢いなのだから…

  • 2006年6月29日 23:54
  • 松田拓弥
  • Essay

恋=時間

 永遠なんて、そんなものは存在しないと思ってた。思ってる。むろん、永遠の愛なんてものは、夢のなかにも出てこない単なる“理想”なんだと思ってる。
 だけど、いつか変わる、いや、変われるときがくるとも思ってる。
 だから、信じることをあきらめない。

「前の恋は、次の恋で忘れなよ」
 だから、終わった前の恋が大きすぎるということはない。思いこみで自分のことだけしか考えられなくなって、防衛線を張りめぐらせて、その先のとがった針先は、相手へと向いたり、ときには自分に向けたり、なにも解決しない、なにも変わらない、なにも変われない、なにも変えられない、深淵に落ちてゆく。

 時間ばかりが通り過ぎて、自分はそのままの時間を繰り返す。
 自分が幸せだと感じれば感じるほど、ヒトは飢えて不安になる。
 その不安を解消し得た代償は、自分の時間と記憶と、前の恋。
 だとしたら、時間のなかで繰り返される“恋”のサイクルは、規則正しく流れつづける時間のなかでしか存在してない。
 そんなふうにはならないだろうか?
 違うだろうか?

「もう“次の恋”はない」
 そう言えたり感じることができる恋は、きっと恋でしかないと思う。
「恋に最後も次もない」

 きっと、なにも感じない。そこに自分の存在があるだけでいいと思えることが、すごくイイんだと思う。
 出逢ってからの時間がどうのとか、誰ソレじゃなきゃダメだとか、二人っきりじゃなきゃイヤだとか、そういうんじゃないと思う。

 きっとそれでいいと思う。

 そういうことを全部ふまえた上で、こう感じる。
『愛と恋との違い真顔で 語り合うほど青かない』
 これは、俺が好きな歌詞のひとつ。

 愛も恋も、その気持ちに違いはないと思う。
 愛と恋とを別のものだとわけたがるのは、そのどちらかをものすごく特別視してたり、自分のなかの気持ちってのを整理したいときに使うんだと思う。
 実際、愛も恋も、そんなに酸いも甘いもわかりきったっていうほど知ってもいない。
 知りたくもない。

 愛は重いか?
 恋は軽いか?
 愛は美しいか?
 恋はかわいいか?
 愛しいだけが愛じゃない。
 好きなだけが恋でもない。
 それはきっと、それを経験した人なら誰もが感じる気持ちだろう。
 ただ、その気持ちを、自分のなかの抽斗にしまいたくなったときに、自分だけのしおりを作るんだろう。

俺の心のなかでは、『永遠』という言葉は、単に時間を表す言葉なんかじゃないと刻まれてる。
『永遠』とは、『愛』だと。その『景色』だと。

いつか、こんな詩を作ってみようと思います。

  • 2006年6月28日 18:44
  • 松田拓弥
  • Essay

ひとり

 みんな、さみしいんだよ…
 そうなの、みんなさみしいんだよ…
 心の奥じゃ、誰もがそんな小さな孤独をいつもいつも抱えてんだよ…
 みんな、ひとりってのが怖いんだよ…

 時間とともにそれが薄れていって、やがてはそれが大きくなる。
 一緒にいる時間が長くなればなるほど、より大きな孤独を感じるようになってって、と同時に、そこに孤独っていう不安と恐怖もふくらんでく。

 ひとりじゃないときが長ければ、ひとりになるのが余計に怖くなる。
 ひとりに慣れてしまえば、ひとりじゃなくなることが怖くなる。

 孤独から1歩進んで。
 1歩引いて、ひとりになって。
 怖くなる。
 ひとりになることも、もうひとりじゃなくなることも。
 そんなときには、きっと誰もが自分自身とふたりになる。
 そして、孤独のなかで孤独を隠して、強がって、笑いながら、泣いている。

 きっと誰もが孤独のなかにいる。
 でも、そんななかでも、いかに自分は孤独じゃないかってことに気づくことが大切なこと。
 そしてそれに気づけたとき、また怖くなっても、また怖くなくなれるよ。

  • 2006年6月28日 12:57
  • 松田拓弥
  • Essay

大切な人

大切な人がたくさんいて
大切な人は選べなくて
大切な人に順位なんてつけられなくて
大切な人を想っていたら
涙がたくさんこぼれたんだ
理由なんてきっとない
きっとそれでいいんだよね
きっと。

  • 2006年6月28日 09:00
  • 松田拓弥
  • Poetry

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