2006年9月の文章リスト

“ 2006年9月 ” 分の文。

想う

 泣いた。
 涙が出てきた。
 止められなかった。

 その大事な人のことをしゃべっていたら、まるでさざ波のように静かな涙が押し寄せてきた。
 最近その人とのあいだに、なにかしらわからないけど距離を感じるようになってしまっていた。
 でも明らかに態度でそう示されてるとかじゃない。それはなんとなく、肌で感じるもの。感じてしまうもの。
 実際には、そんなの勝手な妄想なのかもしれない。
 触れられるものじゃない。触れたわけでもない。目には見えない。形もない。お金じゃ買えない切符がある。
 どうしても、こらえることができなかった。
 でもこれは、流していいもんだとも思った。だれも見てない。我慢することでもない。そんな制限だってどこにもない。
 でもやっぱり、がんばっていた。
 上を向いて、下を向いて、深呼吸して、また大きく息を吐いて。
 でもダメだった。
 こぼれた。
 そして、1度流れてしまった涙は、もうなにをやっても止められなかった。
 しゃべりながら涙を流し、それをまた戻そうとするかのように鼻をすすった。咳も出る。
 ムリに泣くのをやめようって思いながらも、自分でもどうすることもできないっていう葛藤みたいなグルグルの渦巻きのなかにいる感覚。
 あふれた瞬間、それまでの倍以上にも光が増えたような錯覚に陥る。景色が歪む。床もにじむ。いつの間にか自分の手のひらが目の前にある。
 とめどなく涙が落ちていった。
 それは、そこにある気持ちや言葉も同じだった。

 熱くなる。
 泣くと、体が熱くなる。
 まるで火傷しそうなラーメンをムリしてでも、湯気のもうもうと上がっているうちに食べようとしてるような感じ。
 だけど汗は出ない。
 泣いたときの熱は逃げていかない。逃がす必要もない。しばらくのあいだ、そこでこもってる気がする。
 ただ、その熱を感じていた。

 まつ毛が濡れてる。
 朝露のように、景色の上に浮かんで見える。
 しゃべってるあいだ中ずっと、涙が途切れることはなかった。
 だけど、それはやがて止まった。
 全部吐き出したんだと思った。
 大切だと思う気持ち。
 距離を感じるようになって、そこから生まれてきた不安や葛藤、後悔、それまでの感謝、いろんなこと。
 修復したいという願い。
 だけど、涙が止まったときは不思議に思う。なぜ泣いていたのか、一瞬わからなくなる。
 気持ちよくて、清々しささえある。
 まるで夜明けみたいだ。

 とめどなくあふれる気持ち。
 一緒に流れる涙。
 どちらも大事で、どちらも熱い。
 “心の汗”とかなんとか言うけれど、乾いたとしてもにおわない。
 本当に怒ったとき、泣けてくるっていう人もいるだろう。
 でも逆に、ものすごく冷静になるっていう人もいるだろう。
 “女の武器”ともいう。
 でもそこには、その人なりの何かがあって、それによってそれが人の心を動かすだけの気持ちがあるってことなんだろうと思う。もし騙すにしたって、それだけ大きなものがあるってことで、簡単に人の心なんて騙せるもんじゃないとも思う。
 涙って、やっぱりものすごく感情がたかぶったときにあふれてくるものだと思う。
 きっと心の限界点みたいなもの。沸点でもいい。
 その気持ちや出来事を心だけじゃ受け止めきれなくなったときそれは、あふれて、こぼれる。
 言葉以上に、言葉も含めて気持ちを語る。その気持ちがあらわれる。
 言葉や気持ちにそんなのおかしいのかもしれない。
 でも、それらの究極が“愛”であるなら、そう信じて、そう呼びたい。

 想い。
 結局、涙は人のために流すものじゃない。誰かのために流せないし、流れない。
 自分のためであり、自分の上に流れてゆく。
 それを見守ってくれたり、拭ってくれたりするのが人っていうだけのことだ。
 悲しいときや苦しいとき、つらいときには泣いてしまう。自分自身を支えきれなくなったりする。
 だけど自分の涙が流れて改めて、またその気持ちに気づいたり、わかったりする。実感する。
 想うこと。願うこと。
 がんばろうとか、負けないぞとか、大切さとか……
 嬉しかった。

 言葉や気持ちにもし、形があるとするならば、それが涙なんじゃないのかな。
 愛ってやつも、そんな形をしてたらいいな。

  • 2006年9月 9日 00:07
  • 松田拓弥
  • Essay

追い風と向かい風の吹きすさぶ道のり

 大切な人がいる。すごく。
 すごく大切だ。同じぐらい大切だ。
 大切な人に優先順位なんて、そんなものつけるほうがおかしい気もする。
 大切な人は、そのまま“大切な人”でいいと思う。
 まあ、それはいいとして、ひさしぶりに会えるらしい。

 1人は遠い。ただ遠い。とにかく遠い。
 もう1人は近い。ただ時間が合わない。とにかく合わない。

 が、しかし、同時に2人とは会えない。
 そして、それは突然だった。
 そんな脅威のダブルブッキング。

 こんなとき、どちらと会うべきなんだろう??
 やっぱ、どちらかとは会いたいわけ。
 でもこれだと、さすがに優先順位ってことになっちゃうんだろうか??

 遠路はるばる遠いところから、わざわざ会いに来てくれるという。
 でもそれは、ただ遠いというだけだ。時間はいくらでも融通がきくらしい。
 結局、お金とかの問題になっちゃうんだろうか??
 気を遣ったりしてしまう。
 “遠路はるばる”っていう言葉で、申し訳ないっていう気持ちが湧く。
 不思議なもんで、こういうときってやっぱりお金ってやつは強く感じる。
 まあ、そこにある人間関係の大切さは、お金とか、そういうことじゃないってのは、お互いにわかってる。
 でも、そうとばかりも言ってられそうもないのが、人間関係ってやつなんだろうとも思う。
 きっとこの機会をむげに断ろうものなら、たぶん“せっかく行ったのに”っていう言葉の1つや2つ、浴びせられるのは間違いなくあると思う。
 あからさまなそれはなくとも、“会えないんだったら、もっと早く言ってよ”とか、皮肉にも似たことをダラダラと言われそうなもんだ。先にわかってたら、きっとそうしていたに違いないさ。
 やっぱり、こういう気後れだとか、迷惑だとか、そうやって自分に降りかかるであろう面倒な未来の出来事も予定のうちに入れて考えるに違いないな。
 とはいえ、それも間違いない。
 浴びせられて当然といえば、そうかもしれない。

 近いのに、会えない。
 これはどうも難しい。
 “暇は自分で作るものだ”というのがデキる人の言葉らしい。
 本当に大切なら、眠る時間を削ればいい。
 いや、さすがにデキるデキないのことじゃないな、きっと。
 そのへんでその人の気持ちを量る人は、けっこう多いと思われる。
 本来なら、メール1つ送って、ひょこっとそこに現れれば、簡単に会えそうなもんだ。
 でも実際には、案外そうでもないようだ。
 あっちこっち出張に行ってるわけじゃない。家にいないわけでもない。
 でも会えない。
 世の中には、本当にこのタイミングというやつが厄介らしい。
 ただこの場合、もしこちらを断ったとしても、そのときはまたそれまでと同じ言葉を繰り返すだけで済むだろう。
「それじゃあ仕方ないよね。またね」
 いとも簡単。後腐れもない感じ。
 今回のちょっとしたイベントが、またいつもどおりの平日に戻るだけのことだろう。
 ただちょっとその日、残念な気持ちが尾を引くだけで、あとはなんら問題のない1日を送るだけか。
 その日の終わりに電話で話しとかしてみたりするぐらいかな。

 物理的に遠いほうには、犠牲が生じる。
 一般的にはお金だろうなぁ~、やっぱし。
 飛行機代はバカにならない。そこまで離れていなくとも、車のガソリン代、電車代、タクシー代……
 とにかく、移動するには、いろいろと消費するものが多いわけだ。時間は当然だ。
 でもって、そういう犠牲っていうものに、人間ってのは弱いんだと思う。
 社会に出て、世の中ってやつを身をもって知り、時間に追われてるような感覚で生活を続けていくなかで、自分がお金を稼ぐようになったらば、なおさらかと……
 人の痛みを知るっていうより、それはきっと、自分の痛みが先にきてしまうんじゃないだろうか??
 まあ、もし自分がそれをやられたらってことで、人の痛みを知るってことかもしれないけど……
 たぶん、そっくりそのまま自分にも、あとからその犠牲が重くのしかかってくるだろうってわかっちゃうことなんだろう。気が重くなるだろうし、なにより面倒って感じちゃうんだろうな。負い目とか借りとかっていう形で……
 たぶんそこまで考慮に入れた上で、決断を下すことだろうと思われる。

 でも、どうしても僕は違うようだ。
 僕としては、やっぱしどうもこちらのほうが“遠い”という感じを受けてしまう。
 この“近いにも関わらず、時間だとかいろんなタイミングが合わなくて、会えない”っていうニュアンスに、ものすごい距離を感じる。
 “そばにいるのに遠く感じる”っていうのは、本当にすごく距離を感じてるってことだと思うわけだ。
 “遠いけど近くに感じる”ってのは、逆にものすごく親近感というか、今もう同じ場所で一緒にいるんじゃないかっていうぐらいの距離感でいるような感覚にあるときじゃないかと思う。
 いや……なんかこのたとえは、微妙にズレてるような気がしないでもないけど、なんかそんな感じな印象なのだな。
 さらに言えば、恋の話。
 ホント目と鼻の先と言ってもいいような同じ地区に住んでいながら、もうずっと会ってない。見かけることもなくなってしまった。
 別れた恋人。
 今となっては、車で何時間もかけなくちゃ行けないようなところに住んでる人とのほうが、会っているという事実。
 ものすごい疎遠な感覚にあるときふと、襲われることはないだろうか??
 うん、やっぱり巧妙かつ絶妙にズレてるかと……
 もっともらしくて似てそうだけど、やっぱ違う。人によっては“なるほど、そうかも”ってうなずいてくれるかもしれない。
 でもこれ以外に、いいたとえが思いつかなかった。

 僕の結論。
 とりあえず親戚か誰かを事故らせて、どちらとも会わないかも……
 はい、これは一番卑怯な回答です。というより、やる気ない。
 いやいや、僕に限ってそんなこたぁ~、まずあり得ないな。
 なにはともあれ僕としては、“近いのに会えない”というほうの人と会いたい。
 やっぱり“これを逃したら……”っていう考えのほうが大きくなってくと思うわけよ。しかも、考えれば考えるほどに。
 まあ、それを言っちゃ~“遠い人”のほうもそうなんだけどね。むしろ、帰りに何かあったら次は永遠にないということもあり得なくもないわけで……
 “近いのに会えない”っていう人との距離を、また取り戻せたらとか思っちゃうだろうなぁ~と。
 それとも、大切な人には優先順位なんてつけないとか言いながら、やっぱりどこかでは“実際どっちの人と会いたいか”っていう感じで、そういうのが少なからずできてしまってるんだろうかとか……
 その相手の人の性格によって決断は変わるだろうとか、甘えてみたり……遠くて怖い人だったらそっちと会うとか、遠くても「また来てよ」とか軽く言ってのけるかもしれないし。
 いや、“近いのに会えない”ってのは、実際には“会わない”ってだけなんだろうか……
 これを言ったら、もう振り出し以前の問題になっちゃうよな……やめとこ。

 やっぱりなんだかんだ言っても、そばにいる人のほうが強いってことなんだろうな。
 とはいえ、遠い人も実際に来てくれるわけだし……でもその頻度で考えれば、実際そばにいる人ともし、会えるようになってしまえば勝てないだろうってことを期待するってことなんだろうな。
 そうか!!
 こういうことにはそこに“期待”ってのが入り込んでくるようだ。
 そう思えてきた。
 どちらを優先とかじゃなく、どちらにその後の期待が持てるかってこと。
 それこそまさに、会いたいときに会えないって寂しさのなせる業なんだろうか……

 う~ん、やっぱりまた話が最後までまとまってないような気がしています。
 というより、なんの結論も出ていない。

 とはいえ、実際にこういうことがあったっていうわけではないので、そのときになってみないことにはわからないんだけども……
 とか何とか、最後に“ト書き”みたいに付け加えてみたりして。

 バイト中にこんなことを黙々と考える僕は、ここでの将来になんの期待も持てなそうだ……
 まあいいじゃないか。
 それもまた夢があるってなもんだ。
 まあいざとなりゃ~、遠くから来てもらった人に、もう1日滞在を伸ばしてもらえばいいだけの話じゃないか。

 あ、いや……
 こんな結論じゃ許されないな。
 とりあえず、みんなはどうでしょう??
 実際にそんなことのあった人とか、どうだったよ??

 ……結局、訊いて終わりか??

  • 2006年9月 8日 00:23
  • 松田拓弥
  • Essay

PETAL

PETAL

花が咲けば散るように
僕らの出会いも同じように
散るのもきれいな花だから
なにがあっても
この先なにが待ってようとも
また何度も咲き誇ろう

ひらひら落ちる花びらを
手のひら花びら指の隙間
服のどこかに引っかかってる
散っても咲いても美しいなら
つぼみのころも愛しい
きっと咲く花 想い描けてしまうから

  • 2006年9月 7日 00:19
  • 松田拓弥
  • Poetry

Doublue vision

真昼の焼けるような暑さから
夕方涼しい風が吹き抜けるころ
疲れた夢のかけらを思いだす
青く濁った空を見上げて

緑色に輝くはずの草っ原も
ところどころが焦げたようで
ホントの色が見えにくくなってる
窓を開けても迎えてくれるはずの風もない日のように

また恋人を抱きしめるたび
過去の恋を語り継いで
新たな嫉妬や怒りや不安を受け入れ
古い涙や笑顔や嘘は色褪せてゆく

だけど忘れることはない
忘れるなんてできやしない
1度は焦がれるほどに心が震え
同じ想いでこの空の色も澄んだはずなんだ

  • 2006年9月 5日 23:52
  • 松田拓弥
  • Poetry

ten

愛はあたり前ぐらいにあればいい
気づけばいつでもそこにある
忘れることもないだろう
たとえ見失ってもそこにある

なにも特別なことなんていらないんだ
それはそんな時間のなかでしか
見つけることができないから
探さないと出てこなくなってしまう
引っ張り出さなきゃ実感できなくなってしまう

気づけばいつでも過去になってる
変わることを受け入れられなくなってしまう
“あのころは”とか“前は”なんて
それはそのときだけのそれでいいんだ
今は未来につながってる

幸せは笑い飛ばせるぐらいがちょうどいい
きっとそれが幸せだから

  • 2006年9月 5日 09:56
  • 松田拓弥
  • Poetry

 やっぱ家族の絆ってやつに弱いらしい。
 どうにもこうにも、こればっかりはダメらしい。
 いつまで経っても免疫ができない。
 涙腺がゆるみまくってる。
 そのくせ、人の死だとか別れには、一切の涙が出てこない。こぼれもしない。浮かびもしない。
 そのへんは、免疫の塊のようになってるみたいだ。

 離れることには強いんだけど、結ばれることには弱いらしい。
 取り戻すとか、手にするために一生懸命がんばるだとか。
 どっちが難しいとか、奇跡とかっていうんじゃなくて、結ばれるのも離れていくのも難しい。
 損得だとか難しさとかで物事判断しちゃったら、どう考えても大切なものが見えなくなる。
 難しいほうに重きを置いてしまったら、人の出逢いなんて葉っぱ1枚より軽そうなもんだ。

 たとえば、その葉っぱ1枚が落ちたことで、そこにいた虫はその夜をあったかく迎えられるかもしれない。

 う~ん、このたとえは間違ってる。
 かなり見当違いな感じがする。
 でもそんなようなニュアンスだろうな。

 家族の絆に限らずとも、やっぱこの“絆”ってのが相手だと、泣けてくる。
 わけもわからず、うなずいている。
 軽々しく“共感”なんて言葉は口にしちゃいけないのかもしれない。
 僕がそれを経験してるわけじゃないから、それがわかるわけじゃないのに、なんかわかったような気がして……
 ああ、ダメだ。
 人は人を思い、人が思いを馳せるのは、命だ。

  • 2006年9月 4日 05:00
  • 松田拓弥
  • Essay

原石から輝きへ、そして無邪気から純粋へ。

 言葉の重みは変わらない。
 誰に言われた言葉なのか??
 そのとき、その前、自分はどんな気持ちだったか??
 そこらへんにかかってくる。
 それが言葉の重みになってみたりするんじゃないか……

 突然、胸にグッとくる言葉が降りかかる。
 それは全然、なんでもない言葉だったりする。
 愛を叫ぶわけじゃなく、夢や希望を掲げて見せてくれるわけでもない。
 でもなんでだ??
 不意だったから??
 わからない。
 だからそのへんにかかってくるんだと思ってみたり……

 言葉よりモノってこともある。
「お腹はすくかもしれないけど、あきらめないでがんばって生きてね」
 そんなあしたの見えたような言葉より、たぶん金だ。米だ。たとえ賞味期限が切れていようが、コンビニのおにぎりだろう。
 あすへとつながる励ましよりも、あしたも実際にそこにいれること。
 普通に生活してれば、そんな特別っぽく見えてしまう状況なんてあり得ない。
 あしたは見えてる。
 だから毎日を“繰り返し”だとか“退屈”だとか感じてしまう。
 でもそれはきっと、そういう“普通の暮らし”ってのができてるからなんだろう。
 誰もが“あしたは誰にもわからない”とかって希望を見つけようとしながらも、どこかで必ずあしたが見えてしまっている。
 物質的にもそれなりに満ち足りている。
 不幸ではない。
 だから目には見えない“言葉”っていうものにさえ重みを欲しがってしまうんじゃないか??
 考えるとき、それは言葉なしにはムリだと思う。
 ただぼんやりと考えてるってのは、きっとなんとなく感じたり思ったりしてるとき。
 考えるのと感じるのでは違うとか思ってみたり……

 言い方とか呼び方なんて、どうでもいいさ。
 愛も恋も、きっと一緒だ。
 好きって気持ちに変わりはない。
 頭のなかにあることと、こうやって文章にして書いてみるのとでは、どうもどっかで食い違いがあったりする。
 言葉にして、自分の言葉で表現するとなると、途端に自分自身の気持ちでさえも、それが難しく見えてしまう。自分のことじゃないような、他人事みたいな見え方がする。
 そんなときがある。
 たとえば、「愛してる」と言われたとき。
 <嬉しい>と感じながら、<ホントにこのまま鵜呑みに信じちゃってもいいんだろうか??>なんて疑ってしまったり。
 「愛してる」と言ったとき。
 <愛してる>とそのまま心のなかで叫びながらも、どこかじゃ<白々しい>とそんな自分を小バカにするような視線があったり。
 でもあえて言うなら、考えるのは“頭”であって、感じたり思ったりするのは“心”であれと願うばかりで……
 そして、こうして自分の言葉を表現するのは、“心のままに”と信じてみる。

 “純粋”って何だろう??
 あっ、なんか結論が先に来た!!
 “自分を何より信じてあげること”らしい。
 だからって頑固とは違う。
 自分の間違いに気づいて、また自分が正しいと思ったほうにいくのだって、自分の信じた方向ってことだから。
 でもやっぱり、それはかなり難しいわけで……
 でもきっと、それは誰もがやってるわけで……
 だから今の自分ってやつがあるわけで……
 弱さだとか悲しみだとか、そういうものにやられてるとき、やっぱり人の優しさや、ただその存在にすがってしまいたくなるもので……
 そういうときにくれた優しい言葉は、絶大なる威力があって、ついつい流されてしまったりする。
 でもそれは悪いことじゃないと思うわけだ。
 もしそれが自分にとって間違っていたとしても、自分が求めていた答えじゃなかったとしても、それはいくらでもあとから気づける。
 そして、いつでも軌道修正できるもんだ。
 遅すぎたなんてことはない。
 “でも、どうにもならないこともあるんだよ”って、優しく諭してくれる人もいる。
 でも、そこから今の自分にできる最善と思えたことをやってみたらいいじゃないか。
 弱さや悲しさ、切ないときは、流されてしまっていいじゃない。
 強いだけが求める答えじゃないんだから。
 泣かない強さに負けるより、泣ける弱さを知ればいい。
 なにが悪くて、なにがイイか。
 なにを信じたらいいのかも、わからなくなる。
 自分の気持ちの整理ができない。その証明もできないでいる。
 でもそういうのって、きっとあとからわかることだから。

 なんだろう……
 よくわかんないけど、すごくイイ。

 こうやって言葉にしてみると、書きながら考えてたり、感じたりしてる。
 で、その重みを一番感じるのは、結局自分なんだろうな。
 きっと。

 今気づいたことは、こうやっていろんなことを考えたり感じたり、いろんな経験を重ねながら、どんどん人って“純粋”っていうところに近づいていくんじゃないかな。
 なんか変かもしれないけれど、それが“プライド”っていうやつなのかも。
 子供はきっとその“原石”で、大人になってくのとともに、その人っていうのが輝きを増していくんじゃないのかな。

  • 2006年9月 2日 00:34
  • 松田拓弥
  • Essay

鏡像

僕の知らぬ間に夜が明けていく
ずっと眺めていたとしても
きっと気づくことはなかっただろう
星が溶けて月の影が薄れてく

よそ見も別れも心変わりも
誰も責めることはできない

誰も1度好きになった人を
嫌いになるために好きになるわけじゃない
傷つけるために向き合うわけでもない
誰も気づかぬうちに愛し合っていたように

だけど“仕方ない”でも片付けられない

  • 2006年9月 1日 18:18
  • 松田拓弥
  • Poetry

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