2006年10月の文章リスト

“ 2006年10月 ” 分の文。

レプリカントでございますが。

 プロ野球ってやつにはたいして興味はない。
 いや、むしろ毛嫌いしてるぐらい好きじゃない。

 ちっちゃいとき、親にチャンネルを奪われた。
 『元気の出るテレビ』や『カトちゃんケンちゃんごきげんテレビ』とか、見たいテレビが中継で中止。
 延長で録ったビデオの半分が略奪。
 どうしても野球ってやつが好きになれない。

 3でやれ。


 でも、ニュースで見た。
 見てしまった……

「泣くな、真っすぐしか投げないから」

 最後の打席で中日の谷繁さんって人が、マスク越しに新庄さんへそうつぶやいたらしい……


 いいじゃないですか!!
 こういうの大好きですよ!!
 きっとこういうことができる人こそ、だれからも慕われるんでしょう。
 そして、こういうことされる人ってのは、ホントにだれからも慕われてるんでしょう。
 そう思います。

「泣けてくるよ、まっすぐにしか生きられないから」

 とはいえ、野球は好きになれねぇ。

 しかし、スポーツ映画でラストが一番感動的なのは、なぜかアメフトな気がする。

 なんなんでしょうねぇ~……

 きっとわかってる。わかってるさ。
 監督の指示を無視したクォーターバックに囁かれた一人の選手が独走で突っ切ってタッチダウンとか、超ロングでウルトラなスペシャル・タッチダウンパス一発とか、最後に練習した伝統的で監督が大好きなフォーメーションでタッチダウンとか、傷から復帰したスーパーヒーローのラストキックとかね。

 人生なのかねぇ~……
 一人で突っ走って、時には懸けに出てみたり、どんなにつまずいて転んでも立ち上がってきたとか、人への思いやりや尊敬、感謝とか。

 そういう人の姿って、本当に泣けてきます。
 痛いぐらいの嬉しさって、人から勇気をもらったときだと思ふ。
 痛くても逃げださない、負けない、淡い弱さの反対側。
 そう思ふ。

 ふと涙があふれてきたら、空をあおぎますか。
 それとも、自分の足元にそれを落としますか。

 涙は心の我慢汁。


 最後の最後にごめんなさい。

  • 2006年10月28日 00:36
  • 松田拓弥
  • Diary

君の分

たまたまつけたテレビから
聞きたくもない愚痴やニュースが
不意に耳に入ってきたり
1日寝ても昨日を見てるようで
そんな日々に嫌気がさしたり
なんか気分が乗らなかったり
気持ちが萎えちゃってるなんて
そんなときもきっとあるよね

ふらっと入ったデパートじゃ
欲しいものが見つからなかったり
買えないものが並んでいたりして
わけもなく取り残された気持ちになるけど

「いいよ、だいじょうぶ」

なにもかもを一人で全部しょいこまないで
不安や迷いに押しつぶされそうになってしまったときは
毎日僕に電話しておいで

どうしても君がつらいときは僕が君の分もがんばるから
どうしても君が淋しいときは僕が笑顔にしてみせる

そのままの気持ちを伝えてほしい
無理なんかしないでさ
ありのままを伝えてほしい
泣き疲れたままでいい
傷だらけの胸も瞳もなにも隠さず
涙を流しながらその腕で
僕にしがみついて
なにも言わずグチャグチャんなって泣けばいいよ
僕が君を一人にはさせないから


なんだか急にいつもどおりじゃなくなって
なんもかもがイヤんなったり
拒んだり悩んだり叫んだり
素直な気持ちを吐き出せなくて
ホントの気持ちに負けてしまいそうになる

歩き疲れたときは僕に寄りかかっていればいい
僕は負けないから
君の分まで強くなるから

なにを失くしてしまったのかも見失ってしまってるときは
もう僕だけ見てればそれでいいよ
僕のなかの君の姿まで見失ってしまわないように

どうしても君がつらいときは僕が君の分もがんばるから
どうしても君が淋しいときは僕が笑顔にしてみせる

  • 2006年10月26日 00:36
  • 松田拓弥
  • Essay

でもやっぱりムリみたいだ。

 ひさびさに会う人会う人、たいがい“ホント変わらないね”って言われる。
 “相変わらず”とか“まだ言ってんの?”とか“わかったから”とか、もう半ば呆れぎみだ。

 でも、それも、悪くないんだな、これが。


 最近の思いの始めに、必ずといっていいほど“不思議だよ”っていうのがくる。
 自分のことなのに、不思議で仕方ない。
 憶えてる。
 忘れない。
 これ以上、ない。

 不思議だよ。

 言葉も気持ちも考え方も、なんもかんもが自分のことから他人のことへと離れていく。

 ── なにやってんだろ、おれ。

 そんなふうに感じることも、ママ。


 でも、なに1つ悲しくなんかないんだよな。
 これまた不思議だけど、今まではずっとすべてが自分の目からでしか見れてなかったような気がする。
 まあ、たしかに極端すぎるかもしれんけど、客観的にいろんなことが見えはじめてきてるような気がするんだよ。
 今までは、どんなにはしたなくて下品でバカでアホでチンカスなことしてても、そんな自分を客観的に見れなかった。
 高校のときには、「今の自分、客観的に見れてないべ」って笑われたこともあった。
 まあ、それはそれで楽しかったからいいんだけど……
 いや、やっぱり楽しいからいいんだな。

 やっぱり自分と完全には切り離せないけど、そういう気持ちも大事だなって思えるんだよ、最近。

 昨日、沈黙のなか、ベッドの中心に体育座りしてた。


 ── なにやってんだろ、おれ ── 今。

 ── でも、なんかいいな、こういうの。

 ── おれの脚、案外長いかも。


 腹がへりすぎて胃がキリキリ痛んでても、それはそれで楽しかったりした。
 そのときのそれより、そのときもっと大事なことがあったから。

 やっぱり、おれってかわいい。

  • 2006年10月25日 18:10
  • 松田拓弥
  • Diary

ガラス瓶

互いの望むぬくもりの上で何度も体を重ねてみたけれど
いつもそこにはコンタクトほどに薄い冷たさが隠れてる
そこに触れたら反射的に体が離れてしまうように
終わりはないけど途切れるたびに
あなたは優しい言葉やキスをくれるけれど
いつの間にか汗が静かにひいてくように
時間と事実と嘘とともにわたしのなかから抜けていく

嘘でしか何も共有できないのかも
あなたとわたしは違うから
でもその誤解を埋めるのもわたしたちでしかない

真実なんて欲しがれば
きっとわたしは泣いてるだけ
あなたが望む関係なんて
これまでずっと嘘の上に嘘を重ねて
やがてそれが大きくなって築いてきただけ
“いい関係”なんて
どちらか一方に都合がいいだけ
そして自分のなかにできていく小さく冷たい深い穴を
焦がすようにふさぐだけ
ごまかして ごまかされて

わたしたちがいつも求め合うように
嘘の上にしかわたしが欲しいぬくもりなんて感じられないのかも

  • 2006年10月24日 19:13
  • 松田拓弥
  • Poetry

きっと僕がしたかったこと

淋しくなるね
君がいないと
なんだかふと
ずっとひとりぼっちだったみたいな気持ちになるよ

今まではそんなこと
一瞬だって感じたことなかった
むなしいとさえ
痛みも喜びも悲しみもわかち合えない二人を憶えてる

遠すぎだよ
君がいない
最後に君と向き合って最初に君が振り返った朝と夜の境界線

必要だなんて言わないよ
ずっとそばにもいれないよ
もう二度と君には逢えないのかもしれないよね

だけどそんなこと
もしかしたら君は望んでなかったのかもしれないよね
どれも全部きっと僕が君にしたかったこと

嘘ついて見栄はって意地はって
カッコつけて謝りもしないでさ
絶対とさえ言えるほど
きっと君への安心感に負けてたんだ
素直な気持ちもなにもかも
みんなきっと伝えてたはずなのに
伝わっているはずだったのに

だけどそれは僕なりの
僕にしかわからないやり方で
いつも君が笑っていたのは
きっとなにもわからないからだったんだよね
そやって僕に気を遣って
苦しいときも楽しいときも
いつも同じ顔を向けててくれた
最後の最後の始まりとすべての終わりまで

痛いよ
そう
君に出逢ってからもこれからも
僕の心が腕が手が
君のそばに行きたがってる
いつも君を探してる
見知らぬ他人のなかにすら
君を重ねようと
君がいつも
自分と同じぐらい大事なんだって教えてくれてた
ほかの人までねじ曲げるほど
純粋な声さえかき消すほどに

求めすぎたり比べすぎたり
大切さを見失いそうになってしまう
耳を傾けること
目を向けること
学ぶこと
感動 共感 ねぎらい 感謝
そしてすべての些細なこと
なにを大切にするかじゃなく
なにを思って大切なんだって感じてるのか
もしも謝ることができるなら
僕が君の表情を1つしか知らないこと

“ありがとう”のひと言が
こんなにも悲しみをもたらすなんて知らなかった

  • 2006年10月19日 19:22
  • 松田拓弥
  • Poetry

名のある存在

 人って、自分を知りすぎると、最終的には死んでしまうのかなとか最近思った。

 “自分探しの旅”とかってよく聞く言葉だけど、それって、僕は思う。

 それまで築いてきた自分っていうのを、いっときでもいい、一瞬でもいいから忘れてしまいときの気持ちなんだって。

 旅好きの人ほど、変化っていうのを求めてるのかなとか。

 人生って、愛とかなんとか、最愛の人、伴侶、あるいは“失った自分の半分”なんて表現もあるけど、そういうのを探すんじゃなくて、すごくありきたりだけど、ホントの自分っていうか、ただの自分、ただ“純粋な自分”っていうのを探してく自分のなかに積み重ねてく時間の軌跡なんじゃないかな。
 それこそ、今の僕が考えられるホントシンプルな表現だと、自分自身の生と死の狭間 ── 他人うんぬんじゃなくて。
 そんななかに最愛の人だとか運命だとか、友達だとか恋人だとかとの出逢いがあったり別れがあったりして、きれいな表現はいくらでもできるっていうだけのことなんじゃないかなと思った。

 どんなに自分のことをよく知ってるって言ってみたところで、やっぱり今の時点では、自分の死だけは知りえない。

 詳しいことはわからんけど、仏教では究極の悟りは“無”らしいし、キリスト教とかでは、きっと自己犠牲なんだろうと思う。
 それってやっぱり、どう転んでも人にも手を差し伸べられる自我っていうものだと思うから、自分のすべてを知るときっていうのは、つまり自分が死ぬってことなのかなって。


 不思議なことに、旅に行けばいろんな人と出逢える。
 触れ合うとか話すっていうことは別にして、たとえチラ見だけだったとしても、きっとそれは出逢いって呼べることもあったりする。
 いろんな人、たくさんの人と出会うことで、これまた不思議なことに、自分っていうのがどんどんすり減っていってるような気持ちになってくる。
 感化されてるわけじゃなくて、その人を真似たりするわけでもなくて。
 影響を少なからず受ける。
 だから、それまでの自分っていうのが、ほんの少しだけ、その人の部分と重なってしまったりするんだろうな。
 それで、その見えなくなった部分の自分が、消えてしまったような気になるんじゃないかな。
 でも消えてるはずもなくて、重なったっていうだけのことで。


 自分っていうのを考えて見つめなおしたとき、どんなに小さくてなにもできない無力な存在かっていうのを思い知らされる。
 なんの影響力もなくて、泣いてたって誰も助けちゃくれなくて、一人で苦しんでたって、それは結局自分には悪あがきにしか思えなかったり。
 どんなに声を嗄らして叫んだって、世の中はなにも変わっちゃくれない。

 不思議だよ。
 どんなに苦しくても生きてられる。死にたいなんて感じなくなった。
 たとえ一瞬でも笑えるんだから。
 心からなんて笑えなくたってよくなった。
 笑顔ができるだけで幸せなんだよ。
 僕の顔も、僕の心も、気持ちも頭も、手も胸も足も、笑顔を忘れちゃいない。
 絆なんて呼べなくたって、そこにはきっとそれじゃない何か、きっと涙が自然とあふれてくるような何かが、あるんだから。
 だから思いきり泣ける。
 我慢なんてしなくなった。
 泣きたいときに泣くようになった。
 そしてそれを人に伝えられるようになった。
 「なんか泣けてきた」って。
 不思議だよ。
 なんもないのに気持ちが突然開けた感じだ ── ホント、開けた。
 そんな感じ。

 あまりに自分っていうのを知らなすぎた。
 知ったような気持ちでいつも大きなことを言っていた。
 自然なんてありはしないなんて、どこかでいつも自分自身を否定していた。
 どれもこれも自分が作りだしたフリなんだって、どこかでいつも常に自分は偽りのなかでしか生きられないとか、なんか映画みたいなことで上辺だけを繕っていた。
 嘘だ。
 嘘しかない。
 自分自身を模索して、手探りのなかで、上辺だけをモミクチャになるほど搾りとって、結局最後だけを見ようとしてた。
 でも違う。
 なにからなにまで知ろうとしても、これから先に起こること、そのとき感じる僕の気持ち、そしてそのとき関わった人の気持ちは、まだ今の僕には知りえないんだって。
 そんなこと今さら気づいてしまった。
 なんか今までの僕には、ちょっとそういうのが難しすぎたのかもしれない。
 “できない”とか“わからない”とか“知らない”っていうのがただイヤだから。
 なにからなにまで今知りたくて。
 まだまだ人生捨てたもんじゃないよ。
 “未来はある”って、きっとそういうことなんだな。
 ひさびさにいろんなこと考えながら感じながら書いてみると、全然書けないなんてことはない。

 なんだろう。
 他人は他人、自分は自分なんて、なんかすごい大人みたいでカッコよくてクールなんだけど、なんかそういうのが少しずつ消えてきた。
 人のことも自分のことのように感じられるようになってきた。
 痛いことも嬉しいことも。
 なんだろう。
 感じようとか感じたいって思うようになってきたのかな。

 誰かが僕の名前を呼んでくれるように、僕もその人の名前を呼ぶ。
 すごく簡単だって思ってたけど、実はすごく難しいことだった。
 人の名前が呼べないって、なんかすごく悲しかった。
 呼べる名前がないって、なんかすごく淋しかった。
 なんか、死んだ人の名前ばかり憶えてくんだ。
 “今、生きてる人はどこいったんだ?”って。

 きっと自分が死ぬときは、きっと、きっと自分っていう存在がいかに大きかったのかを思い知ることができるのかなって。

 って、なんかこれも期待かな。

  • 2006年10月17日 06:19
  • 松田拓弥
  • Essay

8MM 2


 見えてます。
 1Oまんこクッキリと見えてます。
 いや、もしかしたら、2Oまんこ見えちゃってたかもしれません。

 とにかく、はっきりがっつり見えちゃってます。

 日本の映画業界もここまできたのかと、ちょっと関心した。

 まあ、そんなとこ。


 話としては、たぶん1より2のほうがしっかりと練られてるって感じがする。
 でも、最近ではホントありがちな展開で、実にわかりやすい。
 先を読むってのは映画観賞で一番つまんない見方かもしれんけど、そこらあたりの引力がおかしくてちょっと残念。

 個人的には1のほうが好きかなと思う。
 主演がニコラス・ケイジだからってのも全否定はできないけども、1のほうが華があるような気がする。きっと、なんとなくだけどエンターテイメント色が強いんじゃないかなと思う。

 1も2も全体的にほの暗いイメージではあるけど、2のほうは、そこにさらに、特典のなかで監督さんも言ってたように“知性”みたいなもんが漂ってるので、さらに淀んだような雰囲気が加わってる感じ。
 1は、なんとなく“品”みたいなものが感じられた。
 2の出演者さんたちは、やっぱりこう……なんかやっぱカタすぎるというか、ホント頭よさそうな感じとか、その人の役柄の空気がいかにもっていうぐらい出すぎてて、くどい。
 まあ、知性とか知的な感じってのはやっぱ生まれつきなんだろうからしょうがないとしても、金持ちは金持ちすぎるし、ゲイがゲイすぎて、マトモな人もマトモすぎるような気がした。
 空気感が強すぎるかなと。

 ただまあ、これまた特典のなかで監督さんが言ってたように、セクシャリティーでの“挑戦”ってのは充分に成し遂げられてるんじゃないかなと思われます。
 少なくとも日本ではゆうに限界突破したでしょう。
 だって、舐めってるとこモロ見えちゃってんだもの。
 まあ、その意味だけをくめば、『イン・ザ・カット』も『クリスティーナの好きなコト』もがっつり突破しておりますな。
 とはいえそちらは、『サルティンバンコ』略してティンコのほうなんで、限界突破の次元が違うんですが……


 そんなわけで、全然嫌いじゃないけど、そこまで楽しめたわけでもない。


 △

※ただ、もし中学生のときに観ていたら、間違いなく何度も何度も巻き戻すほど ◎

  • 2006年10月14日 02:03
  • 松田拓弥
  • Movies

地面とFuck.

 さっき≪ドン・キホーテ≫へ行くとき、思いっきしチャリでコケた。
 地面に頬骨あたりでバウンドした。
 こんな大きな転倒はホントひさしぶりだ。小学校の夏休み、朝のラジオ体操のあと、公園一周のマラソンのときうしろのやつに押されて左顔面で地面の拭き掃除したとき以来かしら。
 頬骨陥没かと思った。
 おまけに左肩が上がらなくなった。
 記憶もかるく飛んでいます。

 建物から出たときとコケた直後のことは憶えてんだけども、なんでコケたのか思い出せません。
 一応バイトの構内だから労災とかおりるんだろうか……
 左の頬が青くなってボッコシ腫れそうな予感……
 いや、それは大げさだ。顔がそんなに腫れたことなんて、これまでの人生で1度もない。
 もう外は冬の凍てつきだから、余計に突き刺さってくるように痛む。
 北海道の冬いらねぇ。

  • 2006年10月13日 02:23
  • 松田拓弥
  • Diary

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