2007年3月の文章リスト

“ 2007年3月 ” 分の文。

五円玉の穴から見えた世界

新たな出逢いを受け入れるたび
その未来に待ち受ける傷
傷つくことで新たな出逢いがめぐるなら
今はそれも愛おしい


日陰
三日月
そしてまた白い季節

人はそれを何で計るんだろう?
時間や涙、つながり、本能。
いろんなもので感じてる

価値観や経験、夢や希望。
同じもの、似たものを見つめる互いの瞳が映しだす狭い世界。
広い世界に生きながら、ひとにぎりの人だけを探そうとする

求めれば求めるほど
世界がどんどん小さくなってしまいそうで
入口だけを無理やり広げようとしてしまうんだ

ホントはガラスのように硬くてもろいのに
ホントは今にも壊れてしまいそうなのに
見た目だけ偽ることでそれをもっと強くした

ムダに歩きすぎてしまったみたいだ
時にそんなことを考えた
くたびれた道標すら見当たらないような場所
これまでだって矢印どおりに進んできたわけでもないけれど
それがないと不安になるんだ
それがあるから別の道を進めたんだと気づくんだ

それなら今から作ればいい
今までそんなときもあったじゃないか
道が世界のすべてじゃない

泣いてるばかりが子供じゃない
同じように傷や痛みに耐えること
それが僕らの証じゃない

  • 2007年3月30日 02:22
  • 松田拓弥
  • Poetry

もう大人になったかな

「変わらないな」
人はそう言う

でも僕のなかでは
いろんなことが変わっていった

たくさんの人を笑わせ 泣かせた
僕も笑い そして泣いた

そんな気持ちに触れるたび
心の音が聞こえるたびに

僕はきっと成長してきた
変わらないなんて何1つない


「お子様だな」
人にそう言われ
「大人になれ」
自分にそう言い聞かせたこともあった

でも僕も年を重ね
人と同じだけ同じ時の上にいつづけてきた

見える範囲のすべてを見て
聞ける範囲のすべてを聞いた

そんな経験を重ねるたび
僕のなかで積もるたびに

僕は人を傷つけたろう
そして僕にも同じような傷がある


なにかを手に入れるたびに
なにかを捨ててきたんだろうか

なにかを犠牲にするたびに
なにかを求めて得てきただろうか

そんなことも考えられるようになったんだ
ただ泣くだけじゃなくて
ただ笑うだけでもなく
そこにある理由に気づくことができるようになったんだ
そして、それを求めるようにもなっている


もう子供のころより
ずっと大人だ

  • 2007年3月29日 01:47
  • 松田拓弥
  • Poetry

焼ける唇

どんな顔をしてんだろう?
目を閉じて
また開けて
永いようで短い夜が明けてくように
そっと唇も開きかけて

まるで蜂蜜のようなその甘いやわらかさ
ほんの少し僕も濡らして
糸を引くほどの余韻だけを残して
また少しぬくもり重ねて

まるで花びらがひらりひらりと舞い降るように
少しずつその唇が移ろい揺れる

目を閉じて思い描けば
空気だけではひどく冷たい
その吐息や唇が燃えるように熱いから

唇がそっと離れていった瞬間
想い出までも消えてしまいそうで
その唇を見つめてしまう
触れてしまう
指でゆっくりなぞってしまう
それがすべてであるかのように

この唇になにを含んだ?
この歯はなにを噛んだ?
舌の上ではなにを上手に転がした?

ただ眺めているだけで
焼けるほどの唇で

  • 2007年3月28日 08:03
  • 松田拓弥
  • Poetry

僕のなかの鎮座

せっかちな蜂
穏やかな花
麗しき景色
ここから見得る何もかもが
この手に取ることができるような
そんな不安に駆られるときがある

ホントはきっと見えないものを
手探りでもぎ取ろうとしてるだけなのに
動かぬものを拾い集めて
僕のなかに鎮座させる
そしてそれを見つめる日々
それを安心と僕は呼んでた

でも違う
不安とうまく付き合うことが
いろんなものを受け入れたり
些細なことを信じれたり
あらゆるものとぶつかり合ったり
僕のなかの消えないものと
この世界にひしめき合う見えないものを
ただ漠然と恐れることもなく
信じていける力にできる
そんな力ができる
になる

きっと今ある自分やこの世界は
今の僕にとって申し分ないものなんだ
そして僕はそこに生きてる

誰かの優しさが僕の横を素通りしても
きっと誰かの心には触れてるはずだから

  • 2007年3月27日 02:02
  • 松田拓弥
  • Poetry

ドアを開けた向こう側

今までこれまでそれまで
過去の涙のどれよりも
今ある笑顔が大事なのかな

すべての傷や痛みを捨ててまで
手にした笑顔を抱きしめること
それが涙を力にかえる術なのかな

あのときの自分に今の自分は
どんなふうに映るのかな
笑ってくれるかな

過去を自分のなかから全部
消してしまえたらそれでも
泣きじゃくってしまうかな

あのとき抱えた自分のひざと傷と
その涙が消えてしまったことに
泪してしまうのかな

今までずっと途切れることなく
涙のあふれるその全部を
かき消すほどの笑顔かな

きっとその笑顔にも気づかないまま
その上を歩いて行ってしまうのかな
どの笑顔を守ればいいの

きっと今ある自分の
すべてを守ってあげればいいよ
笑顔も涙も過去も未来も

ドアを開ければ
その向こう側があるように
時には閉じてもいいんだよ

  • 2007年3月26日 05:06
  • 松田拓弥
  • Poetry

親友という存在の距離

 とはいえ、“友達”ってやつのとらえ方だって、人によっていろいろなんだろうなとも思ってる。

 なんでも気兼ねなく話せて、なんら気を遣わなくてもいい相手。
 いつもそばにいてくれる人。
 笑い合える仲間。
 つらいことも笑い飛ばせてしまえそうな関係。


 最近思ったのさ。


 ひと口に“親友”って言ったって、そんなもんは自分のなかのとらえ方1つがすべてじゃんて。
 でも、みんながみんなそうじゃない。
 それもまた自分のなかのある基準のもとに、そういう抽斗にしまってんのかなと。
 そうじゃなきゃ、そう呼べる人と、そうじゃない人との違いがない。
 じゃあ、そのときの気分次第で友達の区別もなくなるのかって言ったら、そうでもない。
 もともと友達に区別なんてしてないって言ってしまえば、それはそれでカッコいいだろうと思う。
 でもやっぱり、人間だからな。したくないことでも、やっぱし差別化はしてしまう。というより、したいんだろうと思う。


 人間だれしも、自分のなかに不可侵な領域ってのを抱えてると思う。
 それはきっと絶対的で、他人には踏み入り得ない場所。


 自分のなかの、自分だけの“特別”が欲しいんだと思う。


 で、おれがふと感じたのは、先に結論。指定代名詞とかもそのままだ。


 その距離ってやつをお互いがわかった上で、その一定の距離を保ちながら、常にいる存在。

 さて検証してみよう。


 “友達”ってひと言だ。
 じゃあ、“親友”もひと言だ。
 でも、自分のなかや人のなかに浸透していく響きは、全然違う。

 さっきも書いたけど、人それぞれにあるのが友達だと思う。
 でも“親友”ってのは、きっと、なんとなくでも誰にとってもある程度の重みは伝わるんじゃないかな。意味とか細かいとらえ方は別にして。


 なんでも話せるのが親友じゃない。
 なんも気ぃ遣わなくていいのが親友でもない。

 親友だから話せないこと、話さないことってある。
 親友だから働いてしまう気遣いだってある。
 親友だからこそ踏み込めないところがある。


 だからって“友達”っていう響きや意味や存在が、かるいってわけじゃないんだな。
 逆に友達から話せないことがあり、気遣いもあり、距離をおく場合もある。

 でもそれは、きっと理解だとかお互いがとかじゃなくて、自分からそうしてるんじゃないかなと思うのよ。
 自分がもうこれ以上は踏み込まれたくないって思った時点で、相手にもそうする。気を遣われたら気を遣ってしまう。
 でも、知りたいと思ったことは知ろうとするだろうし、自分がしたいことは相手のことお構いなしでするんじゃないかと思うし、できるんだと思う。
 まあ、乱暴な言い方をしてしまえば、それって自分自身への気遣いだと思うわけよ。


 そのへんで、感じ入ることの多い親友っていうのは、きっと“お互い”っていうのがキーなんだろうと思う。
 すべてが感覚で、なんとなく感じてることなのかもしれないけど、お互いに居心地のいい距離っていうのを保ったままでいけるんじゃないかと思うわけ。
 “保てる”って言ってもいい。
 だから簡単には崩れないんだろうし、そういう友達というか関係の人が自分にもいるっていう人じゃないと、その関係を理解できないんだろうなと。

 まあ、恋人にしてもそうだけど、その関係は簡単に崩れるし、崩せる。しかも、時にはものすごい些細なことで。そのくせ修復するのはかなりムズい。
 友達やってたやつとも、すぐに疎遠になれるし、なったところで特になんら気にもならなかったりする。
 それはきっと、そこに欲があるからなんだろうな。
 恋人ならそれ以上が常に欲しいだろうし、友達なら、変にもっと仲良くなれるかもとか目指してたり、どこまで気が合うのか無意識に試してたり、ついには飽きがきたりするんだろう。

 なもんだから、常に自分自身との関係なんだと思う。
 それを崩すも崩さないも、自分次第。
 我慢できなくなれば壊せばいいし、忍耐できるまでは我慢しようとか感じるんじゃないかな。
 距離というか、そういう欲というか、自分自身というか、そういう要素もろもろが複雑に一定でいられないんじゃないかなと。

 かといってバランス保てとかそういうことでなく、自然とそういうふうになってしまう危うさと背中合わせってのか?
 ちょっと自分のほうがテンション高いかなって感じてしまえば、相手にもそれと同じものか、それ以上を期待したり望んだりしてしまう。疎遠になったかなって感じれば、それは相手のほうが離れてったとか、自分の不安を人のせいにしてしまったり、つい共感や理解ってやつを押しつけてしまう。

 本当に相手のことを大切に思えば、あえてをそれを壊そうとは思わないと思うわけ。
 まあ、“壊してまでの想い”とあらば、それはそれで素敵ではあるけども、その情熱に乾杯ってだけだ。それで嬉しいのもいっときかな。
 やっぱ人の大切さって決してそうではないと思うわけ。それもまた自分であって、きっとお互いではないと思うわけ。結果的にいいことになったとしても、ほかの部分でなにかしらの不具合が出てくるんじゃないかなと。
 相手のなにかを壊してまで、自分との距離を縮めようとする。自分のなにかを壊すために、相手への理解を深める。
 簡単かつシンプルに、そして乱暴なリアルさをもって言ってしまえば、“捨て駒”かな。


 親友って、きっと、いいところはもちろんだけど、相手のヤな部分も見えてるんじゃないかなと思う。
 “ごちそうさま”って引かれるぐらい褒めることもできれば、逆に、“そんなに嫌い?”っていうぐらいのものすごい些細な悪口まで言えると思う。賞賛も批判も、人一倍の知識でできるはず。
 でも、そういうのも全部ひっくるめてなのか、そういう部分はお互いの距離の外に置いておけるぐらいの親密さなのか。
 ただただ“受け入れられる存在”っつーのかなぁ~。

 これ不思議なもんで、いったんその人のことを“親友”って口にしただけでも、自分のなかで全然違う。
 その人のなんかが、自分のなかにスーッと染み込んでく感じ。「親友」って言葉を吐き出したにも関わらず、空気っぽくもあり、水っぽいなんかが、自分のなかで満たされてく気がする。
 わりと、言葉にして外に出せるって、思いのほかすげぇことだと思うのよ。


 ただ、“空気みたいな存在”ってのとは、また別だと思う。
 きっと、いてもいなくてもいいんじゃないか。

 どんなに暇なときでも必要じゃない。連絡しようとかも特に思わない。
 でも、いるんだよな。


 そこが、おれの一番感じるところ。そのへんの友達とか、そう簡単に見つかる存在じゃないっていう部分。


 いなくてもなんら支障はないけど、いる存在。もうこの際“ある”って言ったほうがしっくりくるか。
 モノとかいうとらえ方じゃなく、人とかいうことでもなく、存在っていう感じ方。

 もう信仰に近いか。
 信じる信じないもその人の自由で、それを信じたからって、これといったご利益があるわけでもない。
 でも、なんとなく精神的にというか、心がというか、自分自身がより豊かになったような気がする感じ。


 きっと、どんなにつらいことを話したり経験したところで、一緒に泣いてほしいとか共感してほしいとかいう期待はしないし、望んでもいない。理解してくれとも押しつけないだろう。
 むしろ、もしそういう経験を共有したんなら、そのときはきっと、あとで一緒に笑うんだろうなとすら思える。


 迫らず、離れず、強要せず。

 絶対的ではない安心と距離を、人にしてはきっと、ものすごく難しいそういう距離を保てる距離。

 どっちかが近づきすぎれば、自然と離れ、遠くへ行きすぎれば、また戻ってくる。
 かといって、ありがちな比喩表現“漣”みたいな打ちっぱなしじゃなく、きっとそういう自然のなにかでたとえられない人工的な自然さ。
 どっちかがそれをうまく調整するんじゃなくて、どちらともなく調整しつつ、距離を保つ。
 やじろべえ。
 あっちに傾きすぎれば、多少強引にでも力で引っ張るだろうし、こっちに傾きすぎれば、目一杯突き放しもするだろう。
 そのへんの調整ができないで親友って呼び合ってても、きっとそのうち簡単に崩れる日がくると思う。というより、崩れたときに修復がきかなくなるだろうな。
 さらには、そんな修復が必要になるぐらいの状態になること自体、それまでって気さえする。
 “ケンカするほど仲がいい”のは、友達だ。

 もしかすると、“親友”って呼び合えるのは、ずっとあとになってからなのかもしれない。
 “あ、親友じゃね?”みたいな。
 それまでに何かしらの理由で壊れてしまえば、そんなのは親友じゃなかったって気がする。きっと理由が必要になるのは違う。


 なにかお互いの感覚的なものいろいろがうまいこと絡み合って、それでいて感覚的になにかとうまくいくのが親友なのかな。
 なにをするにも度が過ぎない。もしあるとすれば、お互いがお互いに気持ちよくバカになれるときとか。
 崩れない距離。壊れない加減。
 きっとそれが親友であるための、いや、“ための”ってのは違うな。
 それが親友であるお互いの支点かなと……

 ほらきた。

 “支点”

 いいねぇ、きたねぇ、これ。
 かなりしっくりきた。


 だからいつも、なんとなくいつの間にかそこへ戻っていってしまうんだろうなと思うのよ。
 で、そのとき“そういうときだけ連絡してきて”っていう言葉が出ないのが、きっと親友なのかなってな。
 


 まあ、それはただ単におれにとって居心地のいい関係とか距離っていうだけかもしれんな。
 “親友に言葉はいらぬ”なんていう歴史があるのに、感情論と頭でこんなこといちいち考えくさって親友面してられんのかな。頭で考えて出てくる親友っていうものに、どれだけの価値があんのかね、まったく。


 たぶん、親友にもいろいろあるんだろうけど、きっとそうなるのって一瞬なんだろうな。
 時間をかけてゆっくり熟成させた絆ってよりは、そう感じたあとで熟成させてく深さなんだろう。
 恋愛と同じで、きっとその場で親友って感じた瞬間から、もうその人とは親友なんだと思う。
 だから親友ってのもきっと、親友は親友であり、それ以上でもそれ以下でもない。

 きっと、大なり小なりお互いのあいだに核となる何かがあって、それをお互いが、お互いの距離で共有しながら、あるんだろうなと。
 そのくせ、親友なんて、あってないようなもんだ。そこに固執するもんでもねぇ。
 核さえあれば、分裂はいくらでもできる。それらすべてがその核から生まれ出でた新たな核だ。


 ああ、やべぇ……


 キタ。


 親友とは、“友情フレックス”也。

  • 2007年3月23日 01:54
  • 松田拓弥
  • Essay

終わらない君

この孤独感に果てなどないの
その不安に終わりはないの

どうなの

いつからか芽生え
いつからか途絶え
そしてまた今から
始まろうとしている

いつか言えなかった「好き」ってひと言を
いつも伝えきれなかった“永遠”の意味を
どれだけ涙を流しても途切れることのなかった別れ
そして出逢いがそれを忘れさせた

だけどそれはいっときだけで
どれだけの人と触れ合ってても
ふとそれが頬をかすめただけで
どんどんふくれてしまう

幸せを少し感じるたびに
不安もどんどん大きくなって
不安でいっぱいになるたびに
ホントはいらないはずの孤独を求めてしまう

手に触れた瞬間に
そのすべてが自分のなかに消えてしまったようで
ぬくもりの実感を見失ってしまいそうになる

だけど消えずにあるんだね
孤独のなかで眠ってしまいそうになるたびに
ふと静かに目が覚めるんだ
それは自分が感じようとしてないだけなんだって

消えたんじゃなく
溶けたんだ
溶け合ったんだ

触れてくれた場所にもう一度
自分で触れて 目を閉じて
静かになぞってみるといいよ

今度は自分にその“永遠”を
もう一度「好き」って伝えてあげようよ

  • 2007年3月21日 05:08
  • 松田拓弥
  • Poetry

名を呼ぶ方へ走ってく

鎖がピーンと張り詰めるまで

  • 2007年3月17日 00:14
  • 松田拓弥
  • Poetry

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